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歴史に残る名演「A Black & White Night Live」(4)

Roy Orbisonトリビュート
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デビューから長かった苦闘時代

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 1936年4月テキサス州ヴァーノンに生まれたロイは生まれつき視力が弱く、幼少時代からレンズの分厚い矯正用のメガネをかけていた。

 それもあってかロイは幼い頃から音楽に夢中になり、音楽との関わりは6歳の時、父がギターとハーモニカを買ってくれたことから始まり、わずか8歳にして地元のラジオ局KVWCで自分の番組を持ったり、後にはミッドランド・オデッサ地区でのTVショーに出演したりと早くからその才能の片鱗を覗かせていた。

 たいして裕福でない家庭出身のロイ・オービソンはハイスクールを出てエルパソ天然ガス会社で働いていたが、カントリーやポップスが好きで、ハイスクールの同級生とバンド活動も続けていた。

 毎日昼間は働き夜はバンド活動という生活から抜け出すため、とりあえず大学に行くことにしたものの、1年で中退しバンドに集中することになった。同じ大学に通っていた事のあるPat Booneの成功に影響されたかもしれない。

 この時のバンド「ウィンク・ウェスターナーズ(The Wink Westerners)」は一応カントリーバンドだったが、時は丁度ロック時代到来の1955年。

 「ティーン・キングス」と名前を変えて、オリジナルのロック曲を作り、ノーマン・ペティ(Norman Petty)(後にバディ・ホリーを発掘)のスタジオでレコードを吹き込んだ。

 この時レコーディングされたのは”Ooby Dooby”。この曲はPettyのレーベルJuelから発売されたがセールスには結びつかなかった。

ロイ・オービソン&ティーン・キングス(50年代)

 翌56年、Johnny Cashに薦められ、テネシーのサン・レコード(Sun Records)のオーナーであるサム・フィリップス(Sam Philipps)がティーン・キングスをサンに呼び入れる。

 サンでは大手に移籍したエルヴィス・プレスリーの後釜として期待された。サンで最初に出たのがSamのプロデュースで再録音した”Ooby Dooby”というPettyのところでは全然売れなかったRoyのオリジナルで、これが全米59位という小ヒットどまりで、後が続かなかった。

 Samはバラード・シンガーとしてのRoyの実力、特に声の魅力には気づいていたが、第2のエルヴィスを作り出そうとしていたSamはロカビリー風の曲以外のレコーディングをRoyにさせることはなかった。

 ハムスターみたいなヘンな顔だし、ビン底メガネがずり落ちるし、なんといってもロック向きでないビロードのような美声。到底ダメかと追い込まれながら、自分の天分はバラードにあると思っていたロイはしばらく模索が続くことになった。



 しかし「ツアーが面白かった。他人の曲でも、1曲だけでもいいんだ。ただ、ツアーしてまわってステージに出れたらそれだけで楽しかったんだよ。」と語っているとおり、あまり野心のなかった彼はそのままサンの2軍アーティストに止まっていた。

 そのうちハイスクールのガールフレンドで、付き合っていた彼女(後に最初の妻になる)に捧げた「クローデット」がエヴァリー・ブラザーズ吹き込みでヒット。50年代後半まではロイはエヴァリー・ブラザーズに書いた「クローデット」の作曲者として名を売ったのだった。

 Royはサンを離れ、ナッシュビルに移りRCAの誘いに乗る。シングルを2枚リリースしたが結果は出なかった。この時期、ロイは自分の天分を生かすための模索を続けている。

 鳴かず飛ばずだったRCAをやめて、フレッド・フォスターが経営する小さなレーベル、モニュメント(Monument Records)に移ってからロイにも運が向いてくる。フォスターは先進的なことが好きでロイとうまく話が合った。

 2枚目のシングル「Up Town」は全米72位とチャートインを果たしたものの、同じことの繰り返しであった。ここで自作のバラード曲「オンリー・ザ・ロンリー」を3枚目のシングルとして60年に発売し全米2位の大ヒットとなり、やっとスターの仲間入りを果たす。

ミステリアスな外見と伝説のスーパースター

 60年代前半次々とヒットを連発していくと、ビン底メガネは度付サングラスになり、全身黒づくめ、腹話術師みたいに口も殆ど動かさず、直立不動で、レコードそのまんまに歌ってみせるステージでの姿はその音楽性と相まってミステリアスという伝説が育っていった。

 これについてはオービソン自身が後に

「ツアー中飛行機にメガネを忘れてスペアのサングラスで出ていたら、それが定着しちゃった。黒い衣装は、大好きな西部劇の悪役っぽくてかっこいいなと思ってしていただけ。」

とタネ明かしをしたが、当時は不思議な感覚で見られていた。

 60年代前半ビートルズ旋風が米国上陸したが、オービソンの人気はステージと同じく微動だにしなかった。これは比較のしようがない「孤高の音楽」だったからと考えられている。

 60年から64年まで22曲もチャートに送り込んでおり(うちなんとトップ10に9曲)、気がつけば大変なスーパースターになっていた。

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 しかし家族を大切にする優しいパパで、リモコンヒコーキやバイクが趣味で、豪邸や高級車に興味がなかったオービソンは、マスコミに対して異例なほど露出度が低く「プライベートを明かさずとらえどころのないスーパースター」として、ますます伝説化していった。

 1965年MGMに移籍してからRoyの人生に陰りが見え始める。映画出演等を視野に入れた、さらなる展開を目論んでの移籍にも関わらず、出演作は1本のみで、発売する曲もトップ20に届かないといった状況が続く。

 結局1972年までに出したシングルが15枚くらいで、1965年の「Ride Away」の25位をピークにどんどん勢いが衰えていった。

ロイ・オービソン主演映画「The Fastest Guitar Alive」(1967年)のポスター




ロイ・オービソンを襲った信じがたい悲劇の連続

 1966年6月7日、バイクでツーリングするのが趣味だったオービソン夫妻は、ある日恐ろしい事故に遭遇する。無謀運転のトラックに巻き込まれ、運転していたRoyは無傷同然だったが、後に乗っていた”Oh Pretty Woman”のモチーフとなった最愛の妻のClaudetteは巨大な車輪の下に消えていった(享年25歳)。妻の無惨な死を目前に見た彼は、仕事が出来なくなる。

Royの愛妻Claudetteの交通事故死を報じる当時の新聞

 曲を作るのもレコーディングもやめてしまい、ツアーに出てステージに立つことで心の整理をしようとした。

 しかしこれが裏目に出て再び最悪の事態を招いた。

 父子家庭となり、その父が遠くツアーに出る日々の連続で、68年9月14日イギリスをツアー中だった父親不在の留守宅が火事となった。3人の子供のうち2人を失うという不幸に見舞われたのだ。

 これ以後音楽界からぷっつりとオービソンの姿が消えた。

「葬式でRoyに近づくことが出来なかった。人生で初めて言うべき言葉が見つからなかった。」

 サン時代からのレーベルメイトで、互いの曲をカバーし合ったり、20年近くもメンフィスの地で隣人同士という関係にあった親友ジョニー・キャッシュは、その時も彼に寄り添っていた。

 Royは両親の家で引きこもりとなり、音声を消したTVをじっと見つめていた。キャッシュはどんなに彼を必要としているか、君を救うためにやってきたと伝えた。

 自分の悲しみとどう向き合っていいのか分からない、とRoyは呟いた。

 世間はあまりの悲劇にオービソンが押しつぶされたと考えていたが、実際は違っていた。当時オービソンはMGMに在籍しレコーディングや作曲の仕事を続けることで立ち直ろうと努力していたのだが、さっぱりいいものが出来ないという芸術上のスランプに陥っていた。

 いつの間にかローカルなカントリー歌手という立場になって、60年代の伝説として表舞台から消えてしまっていた。

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再婚 

 1969年3月ツアー中に知り合ったドイツ人女性バーバラ(Barbara Wellhonen)と再婚し人生を立て直そうとしていたRoyに再び転機が訪れるのは、この後まだ1980年近くまで待たなければならない。

 Royが亡くなるまでの20年余りの間、BarbaraはRoyの妻としてだけではなく、マネージャー、プロデューサーとして彼を支え続ける。

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