歴史に残る名演「A Black & White Night Live」(7)完

Roy Orbisonトリビュート
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作曲家としてのロイ・オービソン

作曲家としても殿堂入りを果たしていることは既に述べた。彼はシンガー・ソングライターとしての活動が中心であったため、他人に提供した曲はそれほど多くないものの、いくつかのヒット曲も提供している。

そのうちの一つは「クローデット」である。エヴァリー・ブラザーズに提供してヒットしたことから、「オンリー・ザ・ロンリー」の大ヒットまではむしろ作曲家として知られていた。

また「Lana(愛しのラナ)」は、ロイが1961年The Velvetsのために書いて発売されたが、なぜか米国ではヒットしなかったものの、1963~64にかけて半年にわたり日本でヒットした。なおこの曲は1966年にロイもセルフカバーしている。

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日本上陸は遅かったロイ・オービソン

米国では1960年の「オンリー・ザ・ロンリー」大ヒットにより一躍スターとなったロイ・オービソンだが、なぜか日本では紹介されることはなかった。妙なことに米国ではシングルカットされることもなかった「カム・バック・トゥ・ミー」が日本ではヒットしたのである。1964年1月のことで、これが日本で広く認知された最初であった。

Royが契約していたモニュメント・レコードはアメリカから直ではなく、イギリスのロンドン・レーベル経由で契約されていた。日本での契約先は、東京音羽にあったキング・レコードであった。このような複雑な流通経路が米国で60年の大ヒットが日本でずっと遅れて紹介されるという結果になった。

LP収録曲だったこの曲に惚れ込んだ亀渕昭信さんと高崎一郎さんの進言で日本独自にシングル発売され1963年から翌年春にかけて大ヒットした。このヒットをきっかけに日本でも遅ればせながら、オービソンが認知されるようになった記念すべき作品。

その時の日本発売盤ジャケットがこれ

そしてこの曲のイントロを聞いて、どこかで聞いたことがあると思った方はRoy Orbisonの曲に詳しい。彼が米国で初の大ヒットを飛ばした「Only The Lonely」にそっくり。それもそのはず、この曲からイントロを使いまわしたのだった。

Come Back To Me – Roy Orbison

1960年代当時に日本で一番売れたシングルが、日本で独自にシングルカットされたこの「カム・バック・トゥ・ミー」である。今から考えるとそんな信じられない事実が、当時の日本レコード業界の後進性を象徴していると言っても言い過ぎではないだろう。

といっても日本全体のそのような悲劇的な状況に飽き足らず、山下達郎や大瀧詠一のように覚醒された音楽観を持った少数の人々がいたことも事実である。

例えば山下達郎はレコードコレクター誌でオールディーズのCD化に関する記事を書いている中で、Roy Orbisonも日本では亡くなる前までは正当な評価をされておらず、遺作の「Mystery Girl」のレビューを書いていた雑誌の多くが知りもしないで恥知らずに「偉大なシンガー」などの記事を書いていることに苦言を呈していた。

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ロイ・オービソンの声は甘く哀しい

声が甘い上に、ストリングスが大袈裟に盛り上げる曲もたくさんあって、これもかなり甘い。ビートも強烈ではないし、ギターもうならない。

でも、その甘さは、よくある懐メロのオールディーズのような甘さ一辺倒の甘さとはどこか違う。そしてその大袈裟さも、ハリウッドスターのトゥー・マッチさとは少し違う気がする。

胸焼けしないというか・・甘さの中に哀しみがあるというか・・とても癒されないような深い哀しみ。

幸せであればあるほど、一点の染みのようにどうしても拭うことができない哀しみ。それこそがRoy Orbisonの音楽の真髄ではなかろうか。

プロデューサーとしてのフレッド・フォスターの功績

”ポップス音楽史上最高のパラノイア・ソング”といわれる「Running Scared(ランニング・スケアード)」を編曲する際、「ラヴェルの”ボレロ”を聴くと良い」と、Royに助言したしたのはモニュメント・レコード社長でプロデューサーとしても活躍したフレッド・フォスターであった。

プロデューサーとしてフレッドが誰よりも優れていたのは、レコーディングにあたり、当時のナッシュビル録音では考えられなかったような十分な時間と制作費を確保したことである。

それゆえに、「Running Scared」「Crying」「In Dreams」「Falling」「It’s Over」などなど、”オペラティック・ロック・バラッド”といわれるポップス音楽界を代表する数々のヒット曲が生まれた。

Roy Orbisonの歌の多くは、自分の恋心に自信がなかったり、夢の中の女性に憧れたり、去っていった彼女をいつまでも忘れられない男が登場したりと、大変に女々しい歌詞である。

プロデューサーはこのような歌詞だからこそ、オーバーになりそうな大掛かりな編成とアレンジが必要なのだと判断した。それはクラシック音楽のオペラと同じ技法である。

一歩間違えれば、チープな弱い歌になりかねないものを、壮大なロマンティックなものに変えたのは、まさにフレッドの制作力であった。

モニュメントとの契約を終えたあと、RoyはMGMレーベルに移籍したが、常に曲を作り続けなければ履行できないような厳しい契約条件もあり、彼の素晴らしい才能もしぼみ始める。そのようになった原因の一つは、彼を守る、彼を導くプロデューサーが不在だったということに尽きる。

Roy Orbisonに、共作も含めれば130以上もの曲を提供していたジョー・メルソンも忘れてはならない友人である。

同じテキサスに生まれ、Royよりも1歳年上で、同じく歌手を目指していたジョー・メルソン。モニュメント時代の後期、ジョーは共作者という立場に疲れ果て、いま一度歌手の道を歩むため、長く続いたRoyとのコラボを辞めてしまう。

数年後、Royの人気に陰りが出た時、再びコンビが組まれるが、それは遅きに失した。ジョーは素晴らしい曲作りのセンスを持っていた。一方Royには圧倒的な歌唱力があった。一時的であったにせよ、二人の別れはポップス音楽史にとっても非常に惜しまれるものであった。

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