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太陽のあたる場所(A Place In The Sun)~Stevie Wonder

A--E(T)
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はじめに

スティーヴィー・ワンダーは50年ミシガン州サギノ生まれのアメリカのミュージシャン。作曲家、歌手、プロデユーサーの他、様々な楽器を演奏するマルチ・インストゥルメンタリストである。

4歳の時に母親と共にデトロイトに移住した。幼い頃からピアノやハーモニカ、ベースを演奏していた。歌手としてのキャリアは友達と一緒に歌うようになったのが最初で、スティービー&ジョンとして街角やパーティなどで活動していた。

アルバム「Down to Earth」ジャケット

この曲は彼の16歳の時の作詞作曲であり66年のアルバム「Down to Earth」(邦題:太陽のあたる場所)の1曲目のタイトル曲であった。シングルカット盤は全米ポップチャートで9位、R&Bチャートでは3位を記録し、彼の初期作品中の代表曲となっている。

30曲以上の全米トップ10ヒットを持ち、22部門でグラミー賞受賞と最多受賞回数の男性ソロシンガーである。

シンガーソングライターでもある彼にしては珍しくこの曲の作者はモータウン所属の”黒人系ではない”ソングライター・コンビのロン・ミラー(Ron Miller)とブライアン・ウェルズ(Bryan Wells)である。スティーヴィーは、この歌を発表する前年にボブ・ディランの「Browin’ In The Wind」をカバーして、全米ポップチャートで9位、R&Bチャートでは堂々1位を獲得している。

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12歳にしてレコードデビュー

11歳の時自身で作曲した「Lonely Boy」をモータウンの社長ベリー・ゴーディの前で歌と演奏をするというオーディションを受け、契約を獲得した。

1961年には最初のレコーディングとして「Mother Thank You」を収録したが、デビューシングルはベリー・ゴーディの手による「I Call It Pretty Music But The Old People Call It The Blues」に変更され、これが1962年の夏に”盲目の天才少年”のキャッチフレーズと共に発売された。

盲目の少年があらゆる楽器をマスターし、自由自在に演奏する姿は、白人の聴衆をも魅了することを、モータウンは確信していた。彼はその当時ブームだったサーフィン映画二本に子役としてゲスト出演している。白人大衆への浸透を狙っていた新興のレーベルにとってスティービーは格好の素材であった。

スティービーが12歳の1962年末、モータウン・レビューの一員として全米をツアーする。このツアーで廻ったシカゴでの20分ほどの演奏を録音したものが、1963年5月にアルバム「Recorded Live The 12 Year Old Genius」としてリリースされ、これが1位になる大ヒットを記録。ここから同月にシングルカットされた「Fingertips – Part 1 & 2」も1位の大ヒットとなった。この13歳での1位獲得は現在でも史上最年少の記録となっている。



しかしここから一気にヒットチャート最上位の常連となったわけではなく、続く数作は不発に終わった。またスピーディの成長に伴う声変わりに対し、当時のモータウンの経営陣は契約の打ち切りを検討したといわれる。

そんな中、シルビア・モーイと共作した作品などを含むアルバム「アップタイト」が大ヒットとなり、シングルカットされた「Nothing’s Too Good for My Baby」、「With a Child’s Heart」、そしてボブ・ディランのカバーである「Blowin’ in the Wind」がいずれも大ヒットするという成功により、地位を確立した。

Stevie Wonderの歌声と映像

邦題は「太陽のあたる場所」

この作品は太陽の希望の光と、「夢」の実現を高らかに謳い上げた内容になっている。邦題は「太陽のあたる場所」

Stevie Wonder(スティーヴィー・ワンダー)

A Place In The Sun- Stevie Wonder- 1966

Blowin’ in the Wind-Stevie Wonder

Stevie Wonder Blowin' In The Wind

また同じころから同レーベルの仲間に楽曲を提供するため、モータウンの作詞部門・作曲部門との契約を新たに結ぶ。こうして提供された曲の一つがスモーキー・ロビンソン&ミラクルズのNo1ヒットである「Tears of a Clown」などがある。

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新しい音楽へのチャレンジ

彼自身のクロスオーバー感覚が現われてきたのは、1966年にボブ・ディランの「風に吹かれて」をシングルヒットさせたあたりからだった。

このフォークロックの名曲をあえて選んだのは彼自身であり、このころから「太陽のあたる場所」など、決してソウルっぽくはないヒット曲が、次々に登場する。

20歳になるとモータウンと新しい契約を結び、セルフ・プロデュースの権利や数多くの権利をモータウンから得た。

そして自らの収入をつぎ込んで当時まだ珍しかったシンセサイザーを買い込み、一人多重録音による曲作りを始めた。

コンピューターの登場により、音楽の制作環境は大きな過渡期を迎えており、若さとアイディアと最新の装備を武器に溢れ出る才能を活かし始めた。

1972年の「トーキング・ブック」から「インナーヴィジョンズ」「ファースト・フィナーレ」そして「キー・オブ・ライフ」へと至る彼の黄金時代の傑作群は、こんな状況の中で、一気に作り上げられた。

さらに詳しいスティーヴィー・ワンダーの音楽性に関しては以下が参考になる。

上記のリンクを辿り(2)と(3)もお勧めする。

公民権運動との関わり

1963年に発表された「Browin’ In The Wind」はディラン本人の意図とは別に、当時アメリカの黒人の公民権運動シンボルソングとして広く知られるようになった。

同じ時代背景の下で発表されたこの「A Place In The Sun」も不平等な扱いを受けていた多くの黒人たちに希望を与える歌となった。

歌詞に何度も「前進する」という意味のmovin’ onが出てくるように、当時の公民権運動と結び付けて解釈されることが多かった。

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