愛なき世界(A World Without Love)|ピーター&ゴードン

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はじめに

 ピーター&ゴードン(Peter&Gordon)はロンドンのウエストミンスター・スクールで出会ったピーターとゴードンによって結成されたデュオグループ。メンバーはピーター・アッシャー(Peter Asher)ゴードン・ウォーラー(Gordon Waller)

 64年にこの原題「A World Without Love」、邦題「愛なき世界」が全米1位の大ヒットとなった。

 ピーターの妹が当時ポール・マッカートニーと交際していたため、ピーター&ゴードンはこの曲を含めてマッカートニーによって書かれた「Lennon&McCartney」名義の何曲かをレコーディングしている。

 デビューから3作品連続で同名義作品をリリースできたことが最初から大きな人気を得られた理由と考えられている。

 65年には来日しコンサートを行った。67年にはヒットから遠ざかり68年に解散した。その後05年には再結成され活動していたが09年にゴードンが心臓発作で亡くなった。

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結成からデビューまで

高校時代のコンビ結成

 ピーター&ゴードン(Peter&Gordon)は高校時代にコンビを組み、地元で歌っていた。メガネ君がピーターで、黒髪がゴードン。ピーターの妹は目を見張るほどの美少女で、女優をやっていた。そして幸運なことに、この妹の当時の彼氏こそがポール・マッカートニー

 1963年にPickwickというクラブに出演していたのを、EMIレコードのノーマン・ニューウェルにスカウトされ、EMI系のColumbia(当時クリフ・リチャードが契約していた)レーベルからデビュー。

ポールからの楽曲提供を受け幸運なスタート

 デビュー曲にあたり、当時偶然ポール・マッカートニーとピーターの妹のジェーンが付き合い始めたのもあり、ポールから「愛なき世界(A World Without love)」を提供される。1964年春。これが大ヒット。

 最初にこの「愛なき世界(A World Without love)」ができたときはまだサビの部分がなく、ポール自身はこの曲をたいして気に入ってはいなかったようだ。当時のビートルズは飛ぶ鳥を落とす勢いで、ボツになった曲は気前よく他のアーティストに提供していた。

 この「愛なき世界(A World Without love)」もほかの人に歌わせることになり、最初はビリー・J・クレーマーのところにこの曲は持っていかれた。

 だがなんと、ビリー・J・クレーマーはこの曲を「いらない」と断ってしまう。

 そこで、デビューを控えていたピーター&ゴードン(Peter&Gordon)の所へこの名曲が転がり込むことになる。

 無かったサビの部分もポール・マッカートニーに作ってもらい、ピーターとゴードンは華々しくデビューすることとなった。

 「愛なき世界(A World Without love)」は大ヒットし、本国イギリスだけでなくアメリカでもNo.1に

 それからは(特にアメリカで)イギリス系グループを代表するようにヒット曲を確実に出す人気グループとして1968年まで活動した。

 本題からは外れるがこの曲をポールからプレゼントされるきっかけがピーターの美人の妹ジェーン・アッシャーがポールの恋人であったからだが、彼女の写真と共に詳しい事情がこのサイトで紹介されている。

当初はエヴァリー・ブラザーズから強い影響を受けた

 彼らのルーツはゴードンがプレスリーなどのロックンローラー、ピーターはジャズやフォークだったが共通して好きだったのはエヴァリー・ブラザーズだった。

 なので初期の2枚のアルバムくらいまではエヴァリーズのアルバムからのレパートリー(Roving Gambler、Willow Garden、Long Time Gone等)やフォーク・ブルース系の曲がたくさん採り上げられた。

 彼らゆずりのクローズド・ハーモニーを感じるのはこのためであろう。この時期まではまだフォークっぽさが前面にでている。

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愛なき世界(A World Without love) ピーター&ゴードン

Peter & Gordon(ピーター&ゴードン)

当時のTV映像

エヴァリーズからの脱皮

他のアーティストとの交流から幅を広げた

 ’65年ころからより洗練された楽曲を採り上げるようになり、I Go to Pieces(デル・シャノン Del Shannon)からサーチャーズが蹴ったことでアプローチを受け二人は気に入り提供してもらう。

 True Love Ways(Buddy Hollyのカヴァー。秀逸)、

 Woman(ポールのペンネーム実験?!しかしちゃんとアメリカでヒット)、

 Lady Godiva(当時プチ流行していたヴォードヴィル調でまたまた大ヒット)などコンスタントにヒットを重ねた。

 このころのアメリカンツアー・バンドにダニー・クーチらがいた。

 ピーターはこのころ友人のジョン・ダンバー(マリアンヌ・フェイスフルの旦那さん)、バリー・マイルズらとインディカ・ブックスとギャラリーを立ち上げている。

 インディカ・ギャラリーはジョン・レノンとヨーコ・オノが出会った場所として有名。ジョンはここでティモシー・リアリーの本を買ってTomorrow Never Knowsを書いた。

二人の異なる個性が絶妙のハーモニーを生み出した

 まじめ・知性派タイプのピーターと小さなことはあんまり気にしない豪快なスコティッシュのゴードンの取り合わせはなかなかオリジナルなものがあり、加えて若いわりに(?)ドラマティックな表現力もあるゴードンの素晴らしい歌唱力と全くカラーの違う抑えた感じのピーターのハーモニーはブリティッシュ、アメリカンに関わらず独特で、これも人気の要素の一つだった。

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グループ再結成

 長らくピーターはご承知の通り超売れっ子プロデューサーであり、ソニーミュージック・エンターテインメントの副社長か何かまでしていて多忙であり、ゴードンは一時オーストラリアに住んでいたり、音楽出版の仕事等していたがその後アメリカでカントリー系シンガーとして活動していたが、2005年に再結成となった。

 彼らは「再結成していないブリティッシュ・インヴェイジョン最後の大物」として長らくファンに期待されていた。復活に寄せ、ポール・マッカートニーが祝辞をよせている。

 再結成のきっかけはThe Dave Clark Fiveのリード・シンガー、マイク・スミスのトリビュートコンサートだった。

再結成後の08年の映像

ゴードンの死後アップされたヒット当時の映像だが意外に鮮明

Paul McCartneyのデモテープ(音質不良)

デル・シャノンのカバー

解散後のピーター・アッシャーの活動

 ピーター&ゴードンは1967年に解散したが、その後アッシャーはビートルズが設立したアップル・レコードのプロデューサーとして雇われることになる。

 かつてピーター&ゴードンがアメリカ・ツアーを行った際にバッキングを務めたグループがキング・ビーズだった。キング・ビーズのギタリストであるダニー・コーチマーとアッシャーはそれ以来友人となっていた。

 アッシャーはアップルのプロデューサーに就任した後、コーチマーに「いい新人はいないか」と紹介を頼み、コーチマーが推薦したのが、彼の旧友であるジェイムズ・テイラーだった。

 アッシャーに気に入られたテイラーは1968年にニューヨークからロンドンに渡り、彼のプロデュースでデビュー作『James Taylor』を録音した。

 しかし、このアルバムが発売される頃にはポール・マッカートニーとジェイン・アッシャーの関係が破局した為、ポールとピーターの仲も険悪になり、ピーターはアップルにおいて仕事がしにくい立場になってしまう。

 アップルの社内のごたごた等もあり、アルバムのプロモーションも十分にされずに、このアルバムのセールスは不調に終わった。

 テイラーの可能性を信じていたアッシャーは1970年にアップルを退社。テイラーと共にロサンゼルスへと移った。アッシャーはテイラーをワーナー・ブラザーズと契約させることに成功、再デビュー作として『Sweet Baby James』を制作。

 そこではニューヨークからロサンゼルスに拠点を移していたダニー・コーチマーや、その友人であるキャロル・キングが協力している。イギリスでのデビューの不振が嘘のようにこのアルバムは大成功を収め、“シンガー・ソングライター時代”を到来させる。

 続いてアッシャーは1973年にリンダ・ロンシュタットのマネージャーも担当するようになり、彼女を“ロスの歌姫”から“アメリカの歌姫”へと育てる。

 テイラーとロンシュタットの作品をプロデュースするかたわら、その周辺人脈であるダニー・コーチマー、J.D.サウザー、アンドリュー・ゴールドといった人達のプロデュースも手がけた。

 アッシャーはプロデューサーとは言っても、編曲やエンジニアを担当するわけではなく、その役割は基本的にはマネージャーとしてミュージシャンやスタッフやスタジオをブッキングし、レコード会社との間の予算折衝を行い、レコーディングのスケジュール管理を行うというものであった。

 だから明確な“ピーター・アッシャーの音”というものはないが、ミュージシャンやスタッフの選定には彼の音楽に対する好みが自然と反映された。

 彼の好みのサウンドというのは、表面的には洗練されたくっきりとした音ということになる。リンダ・ロンシュタットがカントリー色を脱却したのがその好例。

 ピーター・アッシャーの存在がなかったなら、ロサンゼルスの音楽シーンはカントリー・ロックやスワンプ・ロックの勢力が強い時代がまだまだ続いたはずであった。

 彼の望む音がもっとも顕著に表れているのはエンジニアのヴァル・ギャレイと共に作り上げた作品群であろう。

 1980年代には自身のマネジメント会社にエンジニア/プロデューサーを抱えるようになり、ジェイムズ・テイラーやリンダ・ロンシュタットの作品は彼らに任せることが多くなったが、その分アッシャーは若手アーティストの作品に積極的に関わるようになった。

 1990年代にはソニー・ミュージック・エンタテイメントの重役となり、ニール・ダイアモンドやバーブラ・ストライザンドといった同社の大御所たちのプロデュースを担当。

 更にイギリスの大手マネジメント会社であるサンクチュアリのアメリカ支社の役員になったり、アメリカの著作権協会の理事に就任するなど、ますます活動の幅を広げている。

 アメリカでは、自身は音楽家ではないけれども、音楽制作に携わるスタッフのことを“レコード・マン”と呼ぶが、今やピーター・アッシャーはアメリカを代表するレコード・マンのひとりとなった。

<歌詞>

Please lock me away
And don’t allow the day
Here inside, where I hide with my loneliness
I don’t care what they say, I won’t stay
In a world without love

Birds sing out of tune
And rain clouds hide the moon
I’m OK, here I stay with my loneliness
I don’t care what they say, I won’t stay
In a world without love

So I wait, and in a while
I will see my true love smile
She may come, I know not when
When she does, I’ll lose
So baby until then

Lock me away
And don’t allow the day
Here inside, where I hide with my loneliness
I don’t care what they say, I won’t stay
In a world without love

(Please lock me away)
(And don’t allow the day)
(Here inside, where I hide with my loneliness)
I don’t care what they say, I won’t stay
In a world without love

So I wait, and in a while
I will see my true love smile
She may come, I know not when
When she does, I’ll lose
So baby until then

Lock me away
And don’t allow the day
Here inside, where I hide with my loneliness
I don’t care what they say, I won’t stay
In a world without love

I don’t care what they say, I won’t stay
In a world without love

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