サルバトーレ・アダモ|ヒストリー|年譜

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Salvatore Adamo(サルヴァトーレ・アダモ)

サルヴァトーレ・アダモ(Salvatore Adamo)プロフィール

 アダモは1943年イタリアのシチリアで井戸掘り職人の父親の長男として生まれる。3歳の時、一家はベルギーのフランス国境に近い炭坑町ジュマップに移住し、父親は炭鉱夫として働き始めた。

 6歳の時にアダモは髄膜炎で一年間寝たきりとなり、アダモの家は貧乏で子どもが7人いたものの、両親は息子が坑夫になって欲しくなかったのでカトリックの学校に行かせるなど教育に力を注いだ。

 学校で真面目に学んだ彼はすぐに音楽と美術で顕著な成績をあげるようになった。スポーツも得意だった。

 12歳の時に地方教会聖歌隊に加わり、彼の素晴らしい歌の能力は人の心に強い印象を与えた。

 彼の音楽が影響を受けたのは当時のフランス人の流行歌手の音楽と、イタリアのカンツォーネだった。早くから自分自身で作詞・作曲をし自身で唄っていた

 彼は幼い頃、ユゴーとジャック・プレヴェールの詩が好きで、わりと早くから曲を作ったり、歌を歌っていた。

 貧しい一家を支えるために音楽で生計を立てようとアマチュア・コンテストで名を上げていった。

 1957年、13歳の時、歌のコンクールに次々と優勝し、歌手になる決心をする。1958年最初の作詞・作曲。

サルヴァトーレ・アダモ(Salvatore Adamo)年譜

1960年

 17歳のとき1960年2月に行われたラジオ・ルクセンブルグの歌のコンテストに自作の曲で応募。決勝戦まで残って、1960年パリで歌った。

1961年

 「もし打ち明けられたら(Si J’osaia) 」をコンクールで歌い、優勝賞金5万ベルギーフランを手にする。シャルル・アズナブールが絶賛し、後見人になる。ベルギー・フィリップスで最初の録音。

1962年

 「可愛いバンビーナ」他四曲をポリドールから発表するが不発に終わる。

 10月にEMIより「ブルー・ジーンと皮ジャンパー」/「云わせておけよ」を発表。短期間に三千枚が売れる。

 11月に「サン・トワ・マミー」「さあ、やれ、葬儀人夫」発表。この頃すでに自作曲200曲以上のストックを持っていた。

 シャンソンとポップスの融合から生まれたニュー・スターとして認められるようになる。

1963年

 「サン・トワ・マミー」がベルギーで大ヒット。

 5月14日クリフ・リチャードとシャドウズの前座としてオランピア劇場に初出演。

 11月1日ブリュッセルで初のワンマンショー。ベルギーの国民的歌手となる。ファースト・アルバム(のちの日本盤『プルミエ』)発表。(「雪が降る」「一寸失礼」)

1964年

 ベルギー王女を讃えた「いとしのパオラ」が大ヒット。ベルギー王家のレセプションに出席。

 「一寸失礼」の大ヒットで、フランスでの人気も確立。(スペイン、ポルトガル、スイス、ギリシャ進出)。

 セカンド・アルバム(日本盤=『ドゥージェム』)発表。日本でデビュー。越路吹雪が「サン・トワ・マミー」を歌う。(「夜のメロディー」「不良少年(ろくでなし)」)

1965年

 初のオランピア出演。前売り券はは完売。当日は警官隊が出動した。

 ライヴ・アルバム40万枚の大ヒット。

 ビルボード誌人気投票フランス部門で第一位に。

 フランソワ・モーリャック、アダモの詩を絶賛。

 「サリュ・レ・コパン」誌二位。(新人としては一位)。ヨーロッパ各国でベスト・セラー。時にはベスト・テンの大半を独占。J・ヴェルベック出版より「アダモが語るサルヴァトーレ」出版。(「君を愛す」「夢の中に君がいる」)

1966年

 ジュマップ市名誉市民。イスラエル巡業中に「インシャラー」を制作。平和を願うこの歌は売り上げの新記録をつくり、高く評価されたが、反イスラエル勢力からは激しい攻撃を受ける。

 ベルリン・フィルもこの曲を演奏。「ヴィ・カソリック」誌ではその年の最も紹介すべき人物の一人として、評議会がロバート・ケネディ、キング牧師、ド・ゴール大統領、ローマ法王と並んでアダモをあげる。

 ヨーロッパのファン・クラブが連合して国際的な活動をはじめる。最愛の父が死に、母と幼い弟と五人の妹の面倒をみることになる。

 「傷だらけの心」、「アンサンブル」「おさげの少女」。フランスでアルバム『商業的でないシャンソン集』発表。翌年にかけて2度目のオランピア(ライヴ・アルバム化)

1967年

 初のアメリカ公演と日本公演。映画『アルノー家の人々』に初出演。

 越路吹雪の「サン・トワ・マミー」大ヒット。フランスの人気投票一位保持。

 レコード売り上げ新記録更新。「ル・ネオン」レコード「ふたりのロマン」。

 サード・スタジオ・アルバム(日本盤=『ひとつぶの涙』)

1969年

 第3回目のオランピア(ライヴ・アルバム化)。幼なじみのニコル・デュランと結婚。第2回目の映画「アルドワーズ」出演。

 「明日は月の上で」「ヘイ・ジュテーム」「小さな幸福」「摩天楼」。

 はじめての「イン・ジャパン」大阪で収録

1971年

 アフリカ巡業。

 「雪が降る」の日本語盤が驚異的ミリオン・セラーに。

 ベルリン・フィルハーモニー音楽堂でコンサート。自己のプロダクション独立。四回目のオランピア出演も大雪のさなか大成功。(ライヴ・アルバム化)。

 NHK「世界のワンマンショー」で「自由ベルリン放送」制作の番組が放映される。「ジュンとロぺ」CMソング、大ヒット。

 ミュージック・フェアで森進一と共演。「バラよふたたび」「微笑みの人」

 日本においてはアダモの認知度は殆どなかったが、1964年の夏に越路吹雪がこれをカヴァーしてロングセラーになったことから火が付き1965年に遂にサルヴァトーレ・アダモの日本登場となった。

 1967年の初来日以来30回以上の来日公演を行っており、親日家として知られている。

 日本語だけでなくイタリア語、スペイン語、オランダ語など多くの言葉でも歌っている。

1977年

 NHKで森進一と共演。アダモが「甘ったれ」と「みんなやさしかった」の2曲を森進一に提供。

1984年

 6月心臓病で倒れるが手術によって全快する。

 11月病後初仕事として来日。日本公演と「ミュージックフェア」。千昌夫、チョー・ヨンピルと共演

 ちなみに、Salvatore の発音だが、フランス語だとサルヴァトール、イタリア語ならサルヴァトーレ。アダモ自身がイタリア出身ということで日本ではサルヴァトーレ・アダモが主流となっている。

歌手以外の顔

 あまり知られていないことであるが、『幸せの思い出はさらに幸せである』(2001年)、『魂の言葉』(1994年)を書き作家としての顔も持っている。

 さらに映画『ひなげしの島』(1974年)を監督、主演もしている。ヨーロッパでは高く評価された詩人でもある。

 また1993年以降ベルギーのユニセフ大使としてヴェトナムやコソボで活動している。

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