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輝く星座(Aquarius~Let The Sunshine In)~The 5th Dimension

A--E(T)
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はじめに

フィフス・ディメンションは66年ロサンゼルスで結成された男女混合の黒人コーラス・グループで当初は黒人版ママス&パパスと言われた。

66年にレコードデビューし67年に「ビートでジャンプ(Up,Up And Away)」が全米7位でグラミー賞4部門まで獲得した。

69年ブロ-ドウェイ・ミュージカル「ヘアー」を観たメンバーはミュージカルの中で歌われていた「アクエリアス」に感動し「ヘアー」のもう一曲「レット・ザ・サンシャイン・イン」を合わせて一曲にしてレコーディングした。

そして初の全米1位となった他グラミー賞2部門獲得という代表曲となった。原題は「Aquarius~Let The Sunshine In」

歌っている内容は占星術に関係している。「これからは水瓶座の時代だ」といっており、この星座が示す民主主義、人道主義が大きく前進するであろうと期待を込めて歌っている。「ヘアー」は79年に映画化され、またこの曲は94年の映画フォレスト・ガンプのオリジナル・サウンドトラックでも使用された。

しかし彼らの名前は、ソウルの歴史において、全くと言ってよいほど、語られることはなかった。ノーザン・ソウルの歴史にも、フィーリー・ソウルの歴史にも、ニュー・ソウルの歴史にも、どこにも出ていなかった。

彼らの存在は、ソフト・ロックという新しいジャンル分けが生まれ、その再評価がなされるようになるまで、ほとんど忘れられた存在になっていた。

フィフス・ディメンション(The 5th Dimension)の歴史

デビューまで

男性3人、女性2人からなるフィフス・ディメンションは、元々ヴァーサタイルズVersatiles(多才な、多芸な、多方面に渡る)と名乗っていた。
男女混合で多才なレパートリーを持つコーラス・グループというのが売りだったが、歌っている曲は従来のR&Bナンバーと変わらず、器用貧乏と言わざるを得なかった。

モータウンの西海岸オフィスに勤めるマーク・ゴードンにマネージメントを任せた彼らはモータウンからのデビューを希望していたが、おそらくはフォー・トップスの二番煎じ的なヴォーカル・スタイルであった為か、なかなかそのチャンスは訪れなかった。

彼らはモータウンのオーディションを受けるが不合格となり、マイナー・レーベルから出されたシングルも不発でレイ・チャールズの前座としてツアー生活が始まった。

後に彼らと組んで大ヒットを飛ばすことになるジミー・ウェッブは当時モータウンのスタッフ・ライターであり、ウェッブとヴァーサタイルズの面々はこの当時に知り合った。

デビューは不発

しかし、幸いにしてこのツアー中、後に彼らのマネージャーとなるマーク・ゴードンが彼らに目を付け、ソウル・シティー・レーベルを立ち上げたばかりのジョニー・リバースに紹介してくれる。

1966年、「Poor Side Of Town」で初の全米ナンバーワンに輝いたジョニー・リヴァースが彼らのヴォーカル・スタイルを気に入り、自ら興したレーベルであるソウル・シティに彼らを迎え、レコード・デビューさせる。

しかし、フォー・トップスを少しサイケにしたような感じのデビュー・シングル「I’ll Be Loving You Forever」はごく当たり前のR&Bナンバーだったこともあり、まったくの不発。新人プロデューサーであるリヴァースはここで方向転換を迫られた。

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路線変更

リヴァース自身のマネージャーはルー・アドラーだが、アドラーの傘下のアーティストの中で当時最も大きな成功を収めていたのがママス&パパスだった。

ちょうどヴァーサタイルズはママス&パパスと同じく男女混声のヴォーカル・グループであった為、リヴァースは彼らを“黒いママス&パパス”に仕立て上げようと考えた。

彼はヴァーサタイルズをフィフス・ディメンションと改名した上で、ヴォーカル・スタイルから黒人的なアクを抜き、“漂白”した。

そして、アドラーに内緒でハル・ブレイン、ジョー・オズボーン、ラリー・ネクテル、ボーンズ・ハウというママス&パパスのスタッフを集め、ママス&パパスの「Go Where You Wanna Go」のカヴァー・ヴァージョンを録音した。

作戦成功

元々泥臭いソウルより、美しいハーモニーを中心としたお洒落なサウンドが得意だった彼らにとって、この“黒いママス&パパス作戦”は見事に当たり、「Go Where You Wanna Go」は1967年の初頭にいきなり全米ポップ・チャートの16位にランクイン。

続く「Another Day, Another Heartache」を経て、第3弾シングルとして出されたジミー・ウェッブの書いた「Up, Up And Away」によってフィフス・ディメンションはスターの座につくことになる。

1967年の初夏にヒットした「Up, Up And Away」は気球に乗って世界中に愛を蒔きに行くという内容で、いかにもフラワー・チルドレン的な歌詞が印象的である。

この曲は前年のヒット曲であるママス&パパスの「California Dreamin’」の後を引き継ぐカリフォルニア賛歌であると共に、「Strawberry Fields Forever」や「Light My Fire」と並んで“サマー・オヴ・ラヴ”を象徴する曲となった。

ヒットを支えたライター

このヒットによって作者のジミー・ウェッブにも光が当たることになった。

前年にリヴァースがアルバムに収めた「By The Time I Get To Phoenix」をグレン・キャンベルがカヴァーし、ヒットさせた。

「Up, Up And Away」と「By The Time I Get To Phoenix」が共にグラミー賞を受賞したことにより、ジミー・ウェッブは“若きバート・バカラック”の異名を取るようになる。

彼らのヒットの影には、優秀な白人ライターの活躍があった。特に、前述のジミー・ウェッブに加えてローラ・ニーロの二人は、彼らのヒット曲の多くを書いたことで、世界的に有名なライターとなり、その後は自らシンガーとしても活躍して行く。

この二人のアーティストを世に送り出したということだけでも、フィフス・ディメンションの役割は大きかった。

再び路線転換

「Go Where You Wanna Go」や「Up, Up And Away」を収めたフィフス・ディメンションのデビュー・アルバム『Up, Up And Away』も当然の如く成功を収めたが、その後の彼らの歩みは決して平坦ではなかった。

まずは、彼らの成功の立て役者であるリヴァースがメンバーと対立し、プロデューサーを降板してしまう。

後を引き継いだボーンズ・ハウは、「Up, Up And Away」の成功にあやかろうと全曲の作曲・編曲をジミー・ウェッブに任せたセカンド・アルバム『The Magic Garden』を制作するが、これが評論家たちの高い評価にもかかわらず、なぜか全く売れず仕舞い。

フィフス・ディメンションはもう少しで“一発屋”の異名をとるところだった。

ここでフィフス・ディメンションとボーンズ・ハウは、グループのルーツであるソウル色を強める方向性を打ち出す。

ヴォーカル・スタイルを本来の黒人的な唱法にやや戻し、バッキングのサウンドをストリングス中心からブラス中心へと転換し、白人でありながらゴスペル的なルーツを強く感じさせるローラ・ニーロの楽曲を取り上げた。

この路線転換によってフィフス・ディメンションは見事に復活。サード・アルバム『Stoned Soul Picnic』はニーロ作のタイトル曲と共にヒットした。

いよいよ最大のヒット曲

続いてミュージカル『ヘアー』の挿入曲である「Aquarius/Let The Sunshine In」を取り上げたが、これが彼らにとって最大のヒット曲となった。

この曲によって彼らは二度目のグラミー賞を受賞、ボーンズ・ハウのプロデューサーとしての名声も大いに高まった。この時期がフィフス・ディメンションのピークであった。

初期のジミー・ウェッブを中心とした華麗な白人風ポップスも魅力的だが、1969年頃の彼らのサウンドにはロサンゼルスの伝統的なポップス・サウンドとソウル・ミュージックとの見事な融合が成り立っており、彼らの最大の成果が表れている。

その後のフィフス・ディメンションはソウル・シティを離れていくつかのレーベルを渡り歩くのだが、徐々にシーンへの影響力を失っていく。

フィフス・ディメンションというのは、「白人と黒人、男性と女性が協力し合うことによって、より良い世界を作ることができるのではないか」という幻想が有効だった1960年代後半ならではの存在だったのかも知れない。

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メンバー

  • ビリー・ディヴィス・ジュニア
  • フローレンス・ラルー
  • ラモント・マクレモア
  • マリリン・マッコー
  • ロン・タウンソン

ロン・タウソンは、セントルイス生まれで、映画「ポギーとベス」(ジョージ・ガーシュイン原作の傑作ミュージカル)にも出演している実力者。

ラモント・マクレモアとビリー・デイヴィス・Jr.もセントルイス出身だが、ビリーは軍隊経験中に音楽とであった遅咲きの人物。(ビリーとマリリンは後に結婚する)

それに対して、マリリン・マックーとフローレンス・ラルーは、二人ともカリフォルニア出身でともに大学出のインテリだった。(フローレンスは小学校の先生をしていた)

黒人が大学に入ること自体まだ珍しかった時代であることを考えると、それだけでもミュージシャンとしては異色の存在であり、西海岸の出身ということでフラワー・ムーブメントの影響を自然に受け入れられたことも後に大いに役に立った。

これだけバラエティーに富んだメンバーが集まったグループは、非常に珍しかったことは間違いない。

オリジナル

The 5th Dimension

Aquarius (Let the Sunshine in)

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