チャビー・チェッカー(Chubby Checker)ヒストリー
サウスカロライナで生まれフィラデルフィアで育ったチャビー・チェッカー(Chubby Checker)(’41年10月3日生)ことErnest Evans(本名)は、後のティーン・アイドルFrankie AvalonやFabianと同じSouth Philadelphia High Schoolに通っていた頃にピアノを習い始めた。
しかしチャビー・チェッカー(Chubby Checker)のデビューのきっかけとなったのは、音楽的才能というよりも学校でも人気者だった彼のユニークなキャラクターによるものであった。
チャビー・チェッカー(Chubby Checker)のひょうきんぶりはバイト先の鶏肉店(Fresh Farm Poultry)でも変わらず、物まねで歌を歌ったり冗談を飛ばしたりして大いに客を楽しませていた。
名前の由来はファッツ・ドミノ
声もルックスもファッツ・ドミノそっくりだから彼にちなんで付けたということ。つまり、次のようになる。
・fats(太っちょ) = chubby(ぽっちゃり)
・domino (ゲームのドミノ) → checker (ゲームのチェッカー)
最初のシングル
そんなチャビー・チェッカー(Chubby Checker)のキャラクターに目を付けたのが、彼に目をかけて可愛がっていたバイト先のオーナーHenry Coltだった。
Henry Coltは友人のソングライターKal Mann(Cameo/Parkway Recordsの創立者の1人)と共に、チャビー・チェッカーが色々な人気スターの物まねで歌った「Jingle Bells」のプライヴェート録音を行なった。
この曲は人気音楽番組『American Bandstand』の司会者ディック・クラーク(Dick Clark)のために録音されたもので、ディック・クラークがクリスマスの挨拶用に業界関係者に配った所かなりの評判を呼んだという。
そのためKal Mannがチャビー・チェッカーと契約し、’59年にめでたくParkwayからデビューを飾る事になる。当然デビュー曲はチャビー・チェッカーお得意の物まねを活かしたノベルティ・ナンバー「The Class」( 全米38位 )。
チャビー・チェッカー(Chubby Checker)のこの最初のシングルは残念ながら大きなインパクトを残すことは無かった。
次のカバー曲が大ヒット
しかし1960年には、ハンク・バラード&ミッドナイターズ ( Hank Ballard & The Midnighters ) が1958年に歌った曲をカバーした、「 The Twist ( ツイストNo.1 )」 ( 全米1位 ) が大ヒット。
チェッカーの演奏は、元々はっきりとしたセクシーな長音を強調し、歌の魅力を倍増させたことによって、ついに1960年の秋にビルボード1位になり、4ヵ月間チャートに残った。
さすがにその後は姿が消えたが、1961年後半に再び1番目に輝いている。1年以上の間を置いて、トップに2回帰り着くのはビルボード史上唯一の記録である。
これで判るとは思うが、The Twistが最初にチャビー・チェッカーをスーパースターにした後、彼は1961年にPony Timeでトップに戻った。同じ年に、彼はまた、Lets Twist again!(別記事参照)でトップテンに達し、ツイスト人気は不動のものになった。
当時の驚異的な記録
60年
The Twist 全米1位
The Hucklebuck 全米14位
61年
Pony Time 全米1位
Dance The Mess Around 全米24位
Let’s Twist Again 全米8位
The Fly ( ブンブン・ツイスト ) 全米7位
2回も全米1位を獲得した唯一の曲
61年にチャビー・チェッカー(Chubby Checker)がアメリカCBSのバラエティ番組「エド・サリバン・ショー」に出演してこの曲を歌ったことからラジオ局が再びかけ始めた。
カメオ・パークウェイ・レコードはすぐにこの曲を再発売したところ、ビルボードで62年1月に再び週間ランキング1位を獲得した。
1位になった曲がチャートから消えて再び1位になった例はこの「The Twist」以外にない。ビルボード1962年年間ランキングでも1位になっている。
ツイストブームが世界に波及
彼のヒット作は殆どがツイスト曲であり、 おまけにツイスト物の映画を2本も撮っている(後述)。
1962年には他のアーティストも続々とツイストを取り入れ始め、ツイストブームが最高潮になると、「 The Twist ( ツイストNo.1 )」 が再び全米No.1を獲得。
彼の他の曲も殆どがツイストに関係したものばかりで「キング・オブ・ツイスト」「ミスター・ツイスター」の称号を与えられている。
1961年のThe Flyに加えてチャビー・チェッカーの他のトップテンヒットには、Slow Twistin’ 、Limbo Rock、ヒッチハイカーなどが1962年に3回ヒットした。
彼は長編映画2作品に出演するなど、合計でチェッカーは1966年のバブル崩壊前に32回のチャートヒットを記録した。
その詳細は
ボビー・ライデル ( Bobby Rydell ) とのデュエット曲 「 Jingle Bell Rock 」 ( 全米21位 )、
ディー・ディー・シャープ ( Dee Dee Sharp ) とデュエット曲 「 Slow Twistin’ 」 ( 全米3位 )、
「 Dancin’ Party 」 ( 全米12位 )、
「 Popeye The Hitchhiker 」 ( 全米10位 )、
新しいリズム Limbo=リンボ を取り入れた 「 Limbo Rock 」 ( 全米2位 )、
「 Let’s Limbo Some More 」 ( 全米20位 )、
「 Birdland 」 ( 全米12位 )、
「 Twist Up It Up 」 ( 全米25位 )、
「 Loddy Lo 」 ( 全米12位 )、
「 Hooka Tooka 」 ( 全米17位 )
などを1964年までに次々にヒットさせ、不動の地位を築いた。
大ブームとなり映画でも主演
映画での活躍も目覚しくJimmy Clantonの主演映画『The Teenage Millionaire』(’61年)への出演を皮切りに、
自ら主演を務めた『Twist Around The Clock』(’61年)と『Don’t Knock The Twist』(’62年)、
Helen Shapiro主演のイギリス映画『It’s Trad, Dad!』(’62年)、果てはオーストリア映画『Rote Lippen soll man küssen』(’63年)
とスクリーンの中でもエネルギッシュにダンス・ナンバーを歌っている。
ビートルズ旋風がツイストブームを吹き飛ばす
ダンスノベルティへの関心が低下するにつれ、彼はフォーク音楽に変わり、ナイトクラブのサーキットでレギュラーになっっている。
ちなみに、まだ歌手活動は続けているようだ。
しかしツイスト・ブームも下火となって、ビートルズを中心とする新しい波が押し寄せてくると、ヒット曲が出なくなったが、彼は’62年度ミス・ワールドに輝いたオランダ人の美人妻、Catharina Lodders(’64年結婚)と幸せな生活を送りつつ現在もライヴを中心に活動を続けている。
世界中にツイスト・ブームを巻き起こしたチャビー・チェッカー
黒人ギタリストである、ハンク・バラードが《ザ・ツイスト》という曲を作り1959年にレコードを出したが,そのときはあまり流行せず,1年あまり後に黒人の新人歌手チャビー・チェッカー(Chubby Checker)が同じ曲をレコードにし,彼が《ザ・ツイスト》を歌いながら体を捻る独特なダンスを披露したことにより、テレビ司会者ディック・クラークが彼の番組で大いに感動し、宣伝しだし、流行し始めた。
それがすぐパリに伝わり,パリでの流行ぶりがアメリカで大きく報道されて,62年,本格的なツイスト・ブームに火がついた。
当時のツイストブームを92年に回想風にまとめた映像があったが、リアルタイムでその渦中にあった者としてはセピア色に扱われていることに複雑な心境になる。
Chubby Checker
TV映像はこちら
90年から93年のツアーの映像だが当時より更に太った彼がちょっと悲しい。
翌1962年には二番煎じ、柳の下のドジョウを狙って「レッツ・ツイスト・アゲイン」をリリース、しかしこれもザ・ツイストに劣らぬほどの良い曲で大ヒットとなった。
ツイスト・ブームに便上した形でリリースされたジョーイー・ディー&ザ・スターライターズ(Joey Dee & The Starliters)の「ペパーミント・ツイスト」(Peppermint Twist:1961)も大当りした。
彼はツイストを手始めに“ポニー”、“フライ”、“ポパイ”等々、ダンス名をタイトルに織り込んだ多くのヒットを放っている。
’60年代初頭、ツイストに始まるダンス・ヒットの発信拠点として名をはせたのがフィラデルフィアのレーベルCameo/Parkway Recordsだった。
The Dovells
1960年代後半からヒットに恵まれなかったが88年にはラップグループのファット・ボーイズとコラボしてリリースされた、「 The Twist ( Yo Twist ) 」 ( 全米16位 ) でチャートに返り咲いた。
Fat Boys
Beyonce vs Chubby Checker
新旧対比の着想が面白い
一時的ブームに終わらなかったツイスト
ところで’60年代初頭に全世界を熱狂させたツイスト・ブームだが、もちろん『アメリカン・バンドスタンド』等を通じてチャビー・チェッカー(Chubby Checker)が’60年に「The Twist」を大ヒットさせた事に端を発した。
ただそれが一時的なブームで終わらず、’62年に再度「The Twist」が大ヒットしさらに世界的な広がりをみせたのは、ツイストという新種のダンス・スタイル自体の特徴(魅力)によるものが大きかったと言われている。
つまり、従来のダンスが通常男女1組となって空間的にある程度動き回るスタイルだったのに対して、ツイストはほとんどその場を移動せず1人で踊るスタイルだったため、いつでもどこでも簡単に踊れた訳である。
そのため、「The Twist」がヒットした後しばらくしてもツイストというダンスが廃れるどころかますます人気を集めており、その様を見たパークウェイが’61年暮れに「The Twist」を再発し、翌年大人も巻き込んだ2度目の絶頂を迎える事になる。
この時期ツイストのメッカとなったニューヨークのナイトクラブ、“The Peppermint Lounge”では、映画俳優や文化人も詰め掛けて夜毎ツイスト・パーティが開かれたという。
先述の『Twist Around The Clock』他この時期大量に作られたツイスト映画の影響もあってか、より凄まじかったのは2度目のツイスト・ブームで、’62年にはチャビー・チェッカー以外にも
“The Peppermint Lounge”のレギュラー・バンドJoey Dee & The Starlitersの「Pepermint Twist-PartⅠ」(全米1位)、
Sam Cookeの「Twistin’ the Night Away」(全米9位)、
Gary U.S. Bondsの「Twist, Twist Senora」(全米9位)、
The Topnotesの’61年盤をカヴァーしたThe Isley Brothersの「Twist and Shout」(全米17位)、
The Marvelettesの「Twistin’ Postman」(全米34位)、
King Curtisの「Soul Twist」(全米17位)、
Jimmy Soulの「Twistin’ Matilda (And the Channel)」(全米22位)
他数え切れない位のツイスト・ヒットが生まれている。
特に上記のうち「Twist and Shout」はビートルズもカバーしており、ツイストの範疇を超えたロックのスタンダードナンバーとしての地位を獲得している。
Twist and Shout The Beatles
また、ツイスト・ブームに便乗する形で、時代の寵児となったチャビー・チェッカー関連の様々な商品が発売され、Tシャツ、人形、チューインガム等々何でも飛ぶように売れたんだとか。
この勢いはアメリカ国内に留まることなくヨーロッパやアジア等世界中に伝播しており、各国でツイスト・パーティが開催されたり、独自のツイスト・ヒットが誕生したりしている。
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