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ダイアナ(Diana)~Paul Anka

A--E(T)
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はじめに

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 ニール・セダカと共にポップス草創期を代表するシンガー・ソングライターであるポール・アンカ。

ポール・アンカ

プロフィール

生い立ち

 彼は1941年レバノンのキリスト教系移民の子として、カナダのオタワにあるレストランの経営者の家に生まれた。この店で開かれる人気スターたちのショーを見るのが、少年時代のポールにとって何よりの楽しみであったという。

 8歳の時よりニュー・ヨーク州バッファローの放送局からオンエアされていた人気ディスク・ジョッキー、ジョージ・ロレンツ(犬が吠える様な喋り口調から「ハウンド・ドッグ」のニックネームでも親しまれた)の番組を欠かさず聞いていたと言う。元より彼本人も幼い頃より両親のアンディとカミーが経営するレストランで歌ったり有名タレントの物真似等をして、近所の評判を集めていた様だ。

 12歳の時、家族と一緒にマサチューセッツ州グラスターを旅行した際に、当地のオーシャン・ビーチ・クラブが主催したコンテストに飛び入りで参加、ジョニー・レイ・スタイルの歌で見事優勝し、賞金35ドルを手にした。

 その後、地元のフィッシャー・パーク高校に通う傍らボビー・ソクサーズなるグループを結成した。独学で曲を作ったり夜はセミ・プロ・シンガーとしてクラブのラウンジで歌い、一晩で5ドルほどのギャラを稼いだとの事。当時の彼はピアノやトランペット、ドラム等の楽器にもチャレンジ。間もなく有力なプロモーター、ジョージ・ハミットのもと、ステージ活動を続けた後、ロサンゼルスに進出した。



不発に終わった最初のレコードデビュー

 当地には折しも映画関係の仕事をしていた叔父がいて、彼の照会で有名なアレンジャー、アーニー・フリーマンと知り合い、1956年、モダーン・レコードと契約、自作の「アイ・コンフェス」を同社の系列レーベルだったRPMよりリリースした。同曲は彼自身好きだった「Standed In The Jungle」のヒットを持つR&Bグループ、キャデッツをバックに吹き込まれたものだったが、僅か3,000枚ほどしか売れずに帰国した。

 しかし、どうしても夢が捨て切れず。間もなく自作の4曲を持って自費でニュー・ヨークに進出した。同じホテルに滞在していたカナダ出身のグループ、ローヴァー・ボーイズと仲良くなった。彼らは1956年、ABCパラマウント・レコードよりフォー・フレッシュメンとの競作による「グラデュエイション・デイ」をヒットさせていた。幸運だったのは同グループのプロデューサーがABCパラマウントの製作部長だったドン・コスタだった事で、ローヴァー・ボーイズの推薦もあって彼もドンのもと、オーディションを受ける事になった。

「ダイアナ」で再デビュー

 彼の歌を聴いたドンは即座にレコーディング契約、1957年、彼のもとで吹き込まれた此の「ダイアナ」が見事大ヒットし、一躍スターダムにのし上がった。当時、僅か15歳だった。

 同年7月に自分の弟たちのベビーシッターだった3歳年上の女性「ダイアナ・アユーブ」への片思いを綴った自作自演の「ダイアナ(Diana)」を発売すると、いきなり全米第1位のミリオン・セラーを記録し、弱冠16才で世界的スターとなる。以後この曲は世界149人ものアーティストによりカバーされた代表曲となった。

 同年9月、パッケージ・ショーに出演し、バディ・ホリー、チャック・ベリー、エヴァリー・ブラザーズ、ドリフターズらと共演した。

 1958年、前年暮れからヨーロッパ・オーストラリアを公演、1週間に渡るオーストラリアのツアーにはバディ・ホリー、ジェリー・リー・ルイスも同行した。同年9月来日公演も果たした。

 日本では58年にヒットし、続いて「ユー・アー・マイ・デスティニー(君はわが運命)」「クレイジー・ラブ」も大ヒットし、当時の主流だったラジオの番組では1位から3位まで独占するほどの人気ぶり。

君はわが運命(You Are My Destiny)~Paul Anka
ポール・アンカが作詞・作曲し、自ら歌った楽曲。1957年12月に発表され、アメリカ合衆国で7位まで上昇し、日本でもABCパラマウントから『ダイアナ』のB面としてリリースされ、こちらも爆発的な支持を受けると『ダイアナ』に入れ替わってトップの座に輝いた。

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 ポール・アンカ来日公演の様子をTVで見た記憶を書いてるブログが参考になる。飛んできた紙テープを逆に客席に手渡したのを見てイカスと思ったらしい。

第5回 自作自演のハイティーン・シンガー、ポール・アンカが来日した1958年

 丁度日本ではロカビリー旋風だった時期で山下敬二郎のカバーが大ヒットしてというが、リアルタイムでは知らない。山下は映画で大人気だった喜劇俳優・落語家「柳家金語楼」の息子であったといっても知る人は殆どいないと思う。

 59年頃からポップスに目覚めた僕にとってこの曲は過去のヒット曲であったがラジオではよく流れていた。

 ところでネットで情報収集していてポール・アンカを含めて1940年から1942年生まれのアーティストが非常に多いという事を知った。ジョン・レノン、ボブ・ディラン、サイモン、ブライアン・ウィルソン、大物プロデューサーのフィル・スペクター等々。それぞれ活躍した年代は違うのだが生年が偶然集中している。

シングル盤ジャケット
日本発売盤ジャケット
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ポール・アンカの歌声と映像

Paul Anka(ポール・アンカ)57年オリジナルバージョン

Paul Anka – Diana

ちょっと珍しい当時のTV映像

PAUL ANKA – Diana

画質が良くないが当時の貴重なもの

Paul Anka – "Diana" Legendado PT BR (1957)

現在はラスベガスを中心に活動している彼の円熟の味

Paul Anka – Diana – Live



カバーセレクション

他に日本のTVショーに出演している画像も発見したが、途中から日本の芸人や元歌手を絡ませる安っぽい演出が気持ち悪い。せっかくポール・アンカを出演させるならじっくりと聞かせるべき。

Bobby Rydell 65年全米98位

Bobby Rydell – Diana w/ LYRICS

Frankie Lymon Diana

Frankie Lymon Diana

Bobby Solo

Bobby Solo – Diana – Oh Carol – Put Your Head On My Shoulder

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Ricky Martin スペイン語96年

Ricky Martin Ft. Paul Anka – Diana

The Misfits ホラー・パンク・バンド

The Misfits – Diana

Kaun yeh aaya mehfil me インドのヒンディー語映画音楽59年

kaun ye aaya mahfil mein..Rafi_Asha Bhosle_Majrooh_Usha Khanna..a tribute
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日本のカバー

日本ではこれがスタンダード

山下敬二郎

山下敬二郎 ダイアナ 1958 / Diana

平尾昌晃

平尾昌章 ダイアナ 1958 / Diana




<歌詞>

見事に韻を踏んでる歌詞(赤文字)

I’m so young and you’re so old
This, my darling, I’ve been told
I don’t care just what they say
‘Cause forever I will pray
You and I will be as free
As the birds up in the trees
Oh, please stay by me, Diana

Thrills I get when you hold me close
Oh, my darling, you’re the most
I love you but do you love me
Oh, Diana, can’t you see
I love you with all my heart
And I hope we will never part
Oh, please stay with me, Diana

Oh, my darlin’, oh, my lover
Tell me that there is no other
I love you with my heart
Oh-oh, oh-oh, oh-oh
Only you can take my heart
Only you can tear it apart
When you hold me in your loving arms
I can feel you giving all your charms
Hold me, darling, ho-ho hold me tight
Squeeze me baby with-a all your might

Oh, please stay by me, Diana
Oh, please, Diana
Oh, please, Diana
Oh, please, Diana

 
 

上記でわかるように、oldとtold、sayとprayのように完璧に韻を踏んでる。




<付録>1959年以降のポール・アンカ

 1959年、初の主演映画「ガールズ・タウン」出演した。1960年6月、ニュー・ヨークのナイトクラブ「コパカバーナ」でリサイタルを開演、それまで出演したアーティストでは最年少だった。

 以来、同社では「君はわが運命(1958年全米7位)」、「ロンリー・ボーイ(1959年全米1位)」、「あなたの肩に頬うめて(1959年全米2位)」、「しのび泣くとき(1959年全米4位)」、「パピー・ラヴ(1960年全米2位)」等、約25曲余りのヒットを放った後、1961年、RCAに移籍、一説には100万ドル以上とも言われる契約金で同社に移った彼は、1961年春に、「愛してほしいの(全米12位)」で同社から再スタートした。その間に、バディ・ホリーに「イット・ダズント・マター・エニモア」、イギリスの女性歌手アルマ・コーガンに「恋の汽車ポッポ」をプレゼント、私生活では歌手のアネットとの仲が噂されたりした。

 1959年から1960年頃に発表した前述の「あなたの肩にほほうめて」、「パピー・ラヴ」は、彼女に捧げた曲だと言われている。しかし、1963年、「ひとりぼっちのバースデイ」が全米89位にチャート・インして以降、全くヒットが出なくなった。1970年代初頭、ブッダに移籍するも1971年、「愛のバラード」が全米53位になる等マイナー・ヒットしか出なかった。

 1974年、ユナイテッド・アーティスツに移籍、1974年、フランク・シナトラが引退すると言う噂を聞いて、彼のためにスタンダード「マイ・ウェイ」を提供した。此れは、ポールが「Comme d’habitude」と言うシャンソンの曲の歌詞を英詞で書き直したものだった。また、自身もオディア・コーツとのデュエット曲である「二人のきずな」を「ロンリーボーイ」以来2曲目の15年振りに全米1位にチャート・インさせ復活した。

マイ・ウェイ(My Way)~Frank Sinatra
67年のフランス語の歌にポール・アンカが原曲とは全く無関係な内容の英語の詩をつけてシナトラに贈ったのがこの曲。世界的なヒットとなり、カバーされた回数は史上2位。歌詞の内容は「年老いた老人が、病床の死の間際に自分の人生を振り返る歌」で邦訳とは全く異なる。

 1975年、同じくオディア・コーツとのデュエット曲「I Don’t Like To Sleep Alone(全米8位)、「One Man Woman/One Woman Man(全米7位)をヒットさせた。1970年代以降、彼はアダルト・コンテンポラリー、ビッグ・バンド、スタンダード系の曲を中心にラス・ヴェガスで定期的に公演を行った。

 1980年、カナダで音楽の殿堂入りを果たした。1981年、オタワ市は彼のデビュー25周年を祝い、1981年8月26日を「ポール・アンカ・デー」と呼んだ。また通りの一つを「ポール・アンカ・ドライヴ」と名付けた。1990年、アメリカの市民権を得た。1991年、フランス政府から「Chevalier in the Order of Arts and Letters」と言う栄誉を得た。1993年、ソングライターの殿堂入りを果たした。2005年、カナダ勲章を得た。また、「ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム」、「カナダのウォーク・オブ・フェーム」に星型のプレートと共に名前が彫られた。ハードロック、グランジ、ソウル等の名曲をジャズのアレンジでカヴァーしたCD「ロック・スウィングス」をヒットさせた。2007年12月、ヒット・パレードの殿堂入りを果たした。

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