【天才子役】ペトゥラ・クラーク|ヒストリー|恋のダウンタウン

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ペトゥラ・クラーク(Petula Clark)ヒストリー

イギリスのシャーリー・テンプルと呼ばれた子役時代

 彼女の出世作は64年の大ヒット“Downtown(恋のダウンタウン)”だが、地元のイギリスではその遥か以前の1940年代から国民的なスターとして知られていた。

 1932年11月15日、イギリスはサリー州エプソムに生まれたペトゥラは、ソプラノ歌手の母親に歌を習い始めた。 小さい時から歌や演技がうまく、聖歌隊などで歌っていた。

 初めて人前で報酬をもらって歌ったのは7歳のとき。Bentalls(デパート)の入り口でオーケストラをバックに歌ったという。

 1942年10月10歳の誕生日直前にBBCラジオに出演したことをきっかけに少女スターとして注目を集めた。

 当時、アメリカではシャーリー・テンプル(Shirley Temple)が天才子役タレントとして一世を風靡していたのもあって、たちまち“イギリスのシャーリー・テンプル”として人気を集めるようになり、第二次世界大戦中にBBCラジオに出演したり、軍を慰問していた。

 子役として映画出演も相次ぐ。スクリーン初登場は十二歳のときの1944年。40年代後半には“Petula Clark”という自分の名前を冠したテレビ番組まで持つほどのスターとなっていた。

子役スター時代のペトゥラ

1949年のレコードデビュー、そして子役スターからの脱皮まで

 レコード・デビューは1949年。当時はまだイギリスにはヒット・チャートというものが存在しなかったために、どれだけ売れたのかは定かではないが、1954年にリリースされたシングル“The Little Shoemaker”(シャンソン歌手のフランシス・レマルクやジャクリーヌ・フランソワの歌で有名、邦題『小さな靴屋さん』、アメリカや日本では エームス・ブラザース盤が大ヒット)が全英7位を記録していることから推察されるように、既に歌手としてもトップ・スターの地位を確固たるものにしていたようだ。

 ただ、後のインタビューでペトゥラ自身が語っているが、イギリスの一般大衆にとって彼女は戦時中の厳しい時代に人々の心を和ませた少女アイドルであり、それこそ誰もが我が子のように愛した存在だった。

 それだけに、彼女が大人の女性に成長していく事に違和感を感じる人も少なくなく、子役スターからの脱皮にはかなり苦労したようだ。

50年代の頃のペトゥラ

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フランスを拠点に移して活躍

 イギリスの国民的子役スターからティーン歌手へと成長したペトゥラは、1958年にフランスに招かれてフランス音楽界の聖地であるオランピア劇場に出演を果たす。

 これが大変な評判となり、フランスのヴォーグ・レコードと契約を結んだ。そして、当時ヴォーグの広報担当だったフランク・ウォールフと1961年に結婚し、しばらくはむしろパリを拠点に活動するようになった。

 フランスではフランス語で吹き込んだレコードを次々とヒットさせる一方、イギリスでも好調にヒットを放ち、61年にリリースされたシングル“Sailor”は彼女にとって初の全英チャートナンバー・ワン・ヒットとなった。

 フランスでは“Romeo”

“Ya Ya Twist”

Chariot”がヒット・チャート1位を記録。

 さらに、ドイツでは“Monsier”が、

イタリアでは“Chariot”が1位をマークし、その人気は次第に国際的になっていく。

 フランスは、歌手ペトゥラ・クラーク(Petula Clark)に新しい道へ歩ませてくれた場所でもあった。

 フランスにくる前、ぺトゥラは歌う事に喜びを感じられなくなっていた。みんなが求めるのは、愛らしくて清純な女の子のイメージ。年を重ねても、大人の女性として見てもらえない。

 そんなペトゥラ・クラーク(Petula Clark)にとって、フランスはおどろくことばかりだった。まず歌手たちが、アーティストとして自分を殺さず誇りをもって振るまい、ファンにも支持されていること。

 たとえば、一緒にツアーをしたジャック・ブレル。ステージに立つ彼はまさに詩人であり、自分の中の激情を隠そうともしない。

 また歌そのものも違った。歌詞に深みがある

 人生について掘り下げた内容の歌が人々に愛され、ピアフやシャルル・アズナブールといった実力のある大人の歌い手が心からの拍手をもらっている。

 私らしくしていいんだ、表現者として自分の心にひびく歌を自由に歌えばいいんだ…歌手ペトゥラ・クラーク(Petula Clark)の第2幕の幕開けであった。「わたしはフランスで大人になった」と公言してはばからないペトゥラの所以である。

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トニー・ハッチとのコンビでアメリカの扉をこじ開ける

 彼女のレコードはヨーロッパでは売れても、それ以外のテリトリーでは全くと言っていいほど売れなかった。

 アメリカでは1951年にシングル“Tell Me Truly”がリリースされているが、話題にすらならなかった。

 そんな折、彼女の作品のアレンジ等を手掛けていたイギリスの敏腕プロデューサーで作曲家のトニー・ハッチが、ある曲を持ってパリのペトゥラの自宅を訪れる。

 ちょうどアメリカへ行ったばかりだったハッチは、当時アメリカを席巻していたソウル・ミュージックに強い影響を受けていた。

 トニー・ハッチはサーチャーズ、デヴィッド・ボウイなど数多くのアーティストを世に送り出していた。

 その活躍ぶりから、しばしば“イギリスのバート・バカラック”などと言われている。ビリー・ヴォーン楽団の演奏で有名になった“Look For A Star”(邦題『星を求めて』、当ブログの別記事参照)は彼が18歳のときの作品である。

 ハッチは手持ちの新曲をいくつか持参してパリのペトゥラの許を訪れたのだが、あいにく彼女のお気に召す楽曲はひとつもない。

 苦し紛れにハッチは、別の用途で書きかけていた未完の曲を弾いて聴かせると、彼女はこう言ったという。「そのメロディ、悪くないワ。うまく詞をつけたらどう?」。こうして出来上がったのが「Down Town」なのだった

 ポップな曲調の中にもロック・ビートを巧みに取り入れたこの曲はペトゥラ・クラーク(Petula Clark)の個性にぴったりフィットした。「君じゃなきゃ歌えない」とピアノ演奏して説得したトニーハッチの熱意の賜物でこの曲が出来た。

 ペトゥラ・クラーク(Petula Clark)にとってトニー・ハッチとの出会いは大きな幸運となり、『恋のダウンタウン』の世界的ヒットに続き、このコンビで『マイ・ラヴ』(全米NO.1)や『天使のささやき』などのヒットを連発する。

ぺトゥラ・クラークとトニー・ハッチ

ぺトゥラ・クラークの『マイ・ラヴ』(全米1位)

日本発売盤ジャケット

Petula Clark – My love is warmer than the sunshine

”Down Town”で新境地を開拓

 それまで、どちらかというと古めかしいポップ・ミュージックばかりを歌っていたペトゥラにとっても、“Downtown”は全く新しい挑戦だった。

 当時、たまたまパリのヴォーグ・レコードを訪れていたワーナー・レコードの重役ジョー・スミスは、この曲を耳にしたその場でヒットを確信して全米のディストリビュート権を得たという。

 その読みは見事に当たり、“Downtown”は見事全米チャート1位を記録

 アメリカだけで300万枚以上を売り上げるメガ・ヒットとなり、グラミー賞まで受賞した。イギリスでも2位を記録し、ヨーロッパ各国はもとより日本やアジア各国でも大ヒットとなり、これ1曲でペトゥラは世界的なスーパー・スターとなった。

 翌1965年には“I Know A Place”が全米3位、“My Love”が全米1位(1966年)をマーク。

 ビートルズやストーンズと並んで、ブリティッシュ・インベージョンを代表する存在となる。

グレン・グールドの愛した歌手

 その頃、ひとりのカナダ人男性が荒涼たる大地を自家用車でひた走りながら、カーラジオから流れるペトゥラの歌声にうっとり聴き惚れていた。それが若き日のカナダの天才ピアニスト、グレン・グールドだった。

 彼はまず “Downtown”(’64年11月) で彼女にぞっこん惚れ込み、続く “My Love”(’65年10月)、”A Song of the Times“(’66年3月)、”Who Am I?”(’66年11月)と連打されるシングル・ヒットを追い続け、それらの感想を雑誌『ハイ・フィデリティ』に「ポップ・ミュージック歌手 ペトゥラ・クラーク探求」と題して寄稿した。

 グールドによれば、この四つの歌はそのまま十代の若者が「親鳥の巣から急角度で飛び立つ」巣立ちを表しており、それを体現しているのがペトゥラ自身なのだという。(『グレン・グールド著作集2』みすず書房、1990)。

人種差別に毅然とした行動

 彼女はNBCに『PETULA』というテレビショーの番組を持っていた。

 1968年、ゲストのハリー・ベラフォンテが歌っているとき、ペトゥラは彼の傍に寄り添って彼の腕を取ったのである。

 ベラフォンテはジャマイカの血を引く「褐色の肌」であり、テレビ画面で白人女性が有色人種の腕に手をやったということを、番組スポンサーが問題にし、放映するなら番組を降りると言い出したのである。

 公民権法が制定されたのは1964年のことであったが、テレビという当時の先端的なメディアにおいても人種差別的行為が公然と行われていたことの方がショッキングなことである。

 しかし、ペトゥラは問題のシーンをカットするよう求めるスポンサー側の強い要求に屈することなくオン・エアさせた

 ペトゥラ・クラークをはじめ、ペギー・リー、バーブラ・ストライサンド、ダスティ・スプリングフィールドなど、いかにも白人の女性シンガーが人種差別的行為に対して毅然とした態度をとったかを知るにつけて深い感動を覚えるのである。

キャリア後半のハイライトを迎える

 この時期のペトゥラは“A Sign of the Times”、

Call Me”、

You’re the One(ヴォーグスのカバーでもヒット)”、

I Couldn’t Live Without Your Love”など、トニー・ハッチとのコンビでキャッチーかつダンサンブルでお洒落なポップ・ナンバーを次々と生み出している。

 そのどれもが時代に色褪せない素晴らしい作品ばかりなのは言うまでもなかろう。

 67年には映画「チャップリンの伯爵夫人」(’67)の主題歌“This Is My Song”(邦題「愛のセレナーデ」)を歌い、全米3位、全英1位を記録している。

「愛のセレナーデ」日本発売盤ジャケット

This Is My Song(愛のセレナーデ)

Petula Clark ' This Is My Song' in Stereo

 さらに、続く実験性の高いポップ・ナンバー“Don’t Sleep In The Subway“も全米5位をマーク。

「フィニアンの虹」撮影中にコッポラと

 この頃から、ロマンティックでメロディアスな大人のバラードを歌うようになり、次第にヒット・チャートからは遠ざかっていくものの、フランシス・フォード・コッポラ監督の映画「フィニアンの虹」(’68)でフレッド・アステアと共演したり、「チップス先生さようなら」(’69、ハーバート・ロス監督、ピーター・オトゥール主演)に出演したり、テレビの特番が作られるなど活躍の場をさらに広げていった。

「チップス先生さようなら」より

「チップス先生さようなら」の劇中で歌っているペトゥラ

"Fill the World With Love" (Petula Clark, Boys Chorus)

 しかし、二人の娘たちが思春期を迎え、72年には長男が生まれたことから、70年代半ば頃には家庭生活を優先させるようになる。

 ちなみに、この時期に“Downtown”のディスコ・バージョンを吹き込んでいる(1976年)のだが、これが非常に素晴らしい出来映えだった。

 しかし、再発シングルと勘違いされたために殆ど陽の目を見ることなく消えてしまい、その後プレミア・アイテムとなっている。

家族と共に(70年代後半)

Petula Clark – Downtown Disco 1976

Downtown (disco version) – Petula Clark

1981年にカムバック

 こうして、第一線から退いたペトゥラだったが、1981年に華々しくカムバックを果たす。それもミュージカルの舞台で。

 映画でも有名な「サウンド・オブ・ミュージック」のロンドンでの再演のマリア役に抜擢されたのだった。

 しかし、マリア役といえばジュリー・アンドリュース。

 少女スター時代からの親友であるジュリーの当たり役を演じる事に抵抗を感じたペトゥラだったが、全く新しいマリア像を演じて欲しいという制作サイドの意向と子供たちの強い後押しもあって、この舞台を引き受けた。

これが大評判となり、ペトゥラは次々とミュージカルの舞台を踏むようになる。93年にはウィリー・ラッセルの名作「ブラッド・ブラザーズ」のブロードウェイ公演に主演。

 さらにアンドリュー・ロイド・ウェッバーの「サンセット大通り」の主役ノーマ・デズモンド役に抜擢され、1995年から2000年までの間に2500回もの公演をこなし、彼女にとって最大の当たり役となった。

「サンセット大通り」でノーマ役を演じるペトゥラ

 その一方で、1998年以降はコンスタントにコンサート活動も行っており、何枚かライブ・アルバムもリリースしている。

 驚くべきは、「恋のダウンタウン」の頃から殆ど変る事のない歌声だ。そして、より説得力と深みを増したパフォーマンス。

 コンサートで歌い続けている“I’m Not Afraid”を是非とも聴いて欲しい。

“今宵あなたの前に立つことを私は恐れない/何度も、そう何度も私は自分らしく生きようとしてきた/それは、あなた達の知っている私ではないのよ/今はっきりと確信するわ/誠実さこそが大切なの/私の中に横たわる真実を否定したりはしない”

 と語られるこの作品は、まさに彼女自身の半生を振り返った赤裸々なモノローグ。既に70歳を超えた彼女の、その力強いメッセージとパワーに圧倒されるはずだ。

I’m Not Afraid – Petula Clark

Petula Clark – I'm not afraid (Live Olympia)

 今世紀に入ってもワンマンショーをやったり、ゲスト出演している。

 2013年には新しいアルバムを発売。このアルバムではDowntownのリメイクというかセルフカバーも入っている。

2013年、81歳の時のステージでDown Townを歌っている。

Petula Clark – Downtown (Jools Annual Hootenanny 2013)

 2015年の6月20日には、ニューヨークのステージに立って、Downtownを歌った。

 2016年にはオリジナル曲を中心にしたアルバム”Petula Clark — From Now On“をリリースしている。

 白髪に白づくめの服装でひとりピアノの前に坐った、いかにも寂しげな老女めいたカヴァー写真に欺かれてはならない。

 このアルバムに老いの翳りは微塵も見られない。

 それどころか、若々しい覇気と意欲が漲ったディスクなのである。声だって発音の明晰さ、表情の豊かさ、音程の確かさは今なお健在だ。得意技のフランス語の歌唱を何曲か聴かせる趣向も昔のまま。

 最後に付け加えておきたいのは、ペトゥラのソングライターとしての才能だ。

 実は彼女、アル・グラントという男性名を使って数多くの作品を作曲している。中でも“For Love”と“Love Is The Only Thing”は非常にメロディアスな名曲。

どちらもアルバム・トラックとして書かれた作品だが、シングルとしても十分に通用する出来映えだった。

現在も精力的に活動するペトゥラ

 余談であるが、マイケル・ジャクソンが少年時代に憧れたスターはペトゥラだったという。

 そして2つ目の余談。「恋のダウンタウン」オリジナル;・バージョンではセッションミュージシャン時代のレッド・ツェッペリン ジミー・ペイジがギターで参加している。

 ペイジの演奏は大きなオーケストラにほとんどかき消されているが、曲の中盤で愛用の黒いギブソン・レスポール・カスタムのシャープなスタブをはっきりと確認できる。

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