大ヒット連発も僅かな週給|ヒストリー|P.F.Sloan

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ルー・アドラーとの出会いが悲劇の始まり

ルー・アドラーとの出会いまでの音楽活動

 1945年にニューヨークで生まれてロスアンゼルスで育ったP.F.スローン(P.F.Sloan)は友人からはフィルと呼ばれた。

 エルヴィス・プレスリーに憧れて歌手を目指すようになった彼は、13歳でアラディン・レコードと契約を結び、翌年フリップ・スローン名義のシングル“All I Want Is Loving”でレコード・デビューを果たした。

 しかし、このレーベルはP.F.スローン(P.F.Sloan)がシングル盤をリリースした直後の1959年に閉鎖された。

 いくつかの中小レーベルからレコードを出しながらも成功には至らない日々が続き、1961年に大手音楽出版社のスクリーン・ジェムス社で、ソングライター兼スタジオ・ミュージシャンとして働き始めた時も、まだ16歳の若さだった。

ルー・アドラーとの出会い

 スクリーン・ジェムズの西海岸責任者であるルー・アドラーは、スローンを同じニューヨーク出身で彼と同じく歌手として成功を得られずにいたスティーヴ・バリとコンビを組ませた。

 二人はコンビで曲を書くようになり、アドラーがマネジメントを務めるジャン&ディーンに楽曲を提供すると共に、バッキング・ヴォーカリストとしてもレコーディングに参加した。

 スローンはブライアン・ウィルソン、テリー・メルチャー、ジャン・ベリーなどサーフィン/ホット・ロッド・シーンの主なヴォーカリストの歌真似を得意としていることに示されている通り、様々な声を出すことができた。

 1964年にはこの活動の余技のような位置づけでスローン&バリはファンタジック・バギーズというグループを作り、サーフィン・ミュージックが大流行した頃には、LPアルバム『Tell ‘Em I’m Surfin’』を発表。

 ドラムスのハル・ブレインらスタジオ・ミュージシャンと作り上げた作品であり、ライヴを含めたバンド活動を行う予定がなかったためか、アルバムのジャケットに写る二人以外のメンバーは友人を連れて来て撮影に臨んだ。またスローンはソロ歌手としてサーフィン調の曲をレコーディングしたりしていた。

 尚、この頃までスローンは本名のフィル・スローンを名乗っていた。彼の渾名がフリップであり、フィリップ・フリップ・スローンを縮めたのが後の芸名であるP.F.スローンである。

 ルー・アドラーがどこまで意識していたのかわからないが、スローン&バリのコンビは当時のニューヨークのソングライティング・チームであるゴフィン&キング、マン&ウェイル、バリー&グリニッジらに対抗するという意味合いを持っていた。

 フィル・スペクターはわざわざニューヨークまでゴフィン&キングらの楽曲を買い付けに行っていたわけだが、アドラーはロサンゼルスにいながらにして楽曲を手に入れることができるようになった。

 これは時間・コストを大いに節約してくれた。

 スローン&バリをきっかけにして、後にトミー・ボイス&ボビー・ハート、ゲイリー・ボナー&アラン・ゴードン、デニス・ランバート&ブライアン・ポッターなど、ロサンゼルスにも名ソングライティング・チームが育ってくる。

サーフィン・ミュージックからフォーク・ロックへ

 ルー・アドラーがスクリーン・ジェムス社から独立し、1965年にダンヒル・レコードを設立するとスローンも一緒に移った。

 ダンヒルも当初はサーフィン/ホット・ロッドをやっていたが、1965年、ザ・バーズがボブ・ディランの「Mr. Tambourine Man」をヒットさせていたことからルー・アドラーはフォーク・ロックが音楽の潮流となると確信。

 間もなくアドラーが「次のトレンドはフォーク・ロックだ」と思い立ち、スローン&バリにフォーク・ロックの楽曲を書くよう指示した。こうして二人は今度はフォーク・ロックの楽曲を量産するようになった。

 それからすぐにスローンが一人で作詞作曲したのが「明日なき世界(Eve of Destruction)」で、65年に全米1位の大ヒットとなった。

 また続いて66年に出したシングル盤「孤独の世界(From A Distance)」は全米109位と不発に終わったものの、日本ににおいては静かな支持が広まり大ヒットとなった。

 初めはバーズに提供したが取り上げてもらえず、タートルズがアルバムに入れたがそれも注目されなかった。

 しかしニュー・クリスティ・ミンストレルズのリード・ヴォーカルで「Green, Green」の作者でもあるバリー・マクガイアにこの歌を歌わせ、シングルで発売されると全米1位の大ヒットになった。

 他にはママス&パパスの「You Baby」、フィフス・ディメンションの「Another Day, Another Heartache」、タートルズの「Let Me Be」など、彼らは数多くの有名曲をダンヒルだけではなく、他社のアーティストにも提供するようになった。

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ルー・アドラーのダンヒルから独立しソロ・アーティストを目指すが・・・

 シンガーソングライターとしてだけでなく、プロデューサー等幅広い活動で実績を上げながら、ダンヒルにおける彼の待遇は週給数ドルの報酬のみという待遇であった。

 このままでは自身の音楽活動が制約を受け、目指すアーティストとしての展望は開けなかった。

 これに対してルー・アドラーにとり、P.F.スローン(P.F.Sloan)は週給数ドルのみで働き次々とヒット曲を生み出す金の卵としてしか考えておらずアーティスト活動を快く思っていなかった。

 1966年にスティーヴ・バリと組んで作り、全米3位となったジョニー・リヴァースの「秘密諜報員(Secret Agent Man)」

 彼はダンヒルの所属ではないが、ルー・アドラーがマネジメントを担当していたことがあるので、その縁で楽曲が提供されたものと思われる。

 その一方で自らもシンガーとしての活動を模索し始めた。もともとアーティストだったスローンとバリ。スローンが単独でシングルやアルバムを出す傍ら、二人は適当なバンド名を付けてシングルをリリースしたこともあった。

 その中の一曲が The Glassroots(グラスルーツ)名義で発表された「Where Were You When I Need You」。この曲はローカル・ヒットとなり気を良くしたスローンはメンバーを集めてステージに立ち、ツアーに出ようと考えた。

 しかし、ダンヒル側はスローンが抜けるとレコードの制作に支障が出ることを理由に難色を示し、ベドウィンズというグループをグラスルーツに仕立て上げた。

 そして、スローンとバリを中心としたスタジオ・ミュージシャンが楽曲を録音し、グラスルーツがステージで演奏するというスタイルで事が進行しはじめる。

 ところがグラスルーツはそんなスタイルに飽き足らず、自分たちもレコーディングに参加する事を望んで離脱してしまう。

 このトラブルを乗り越えるために、ダンヒルは彼らに代わってデビュー間近のサーティンス・フロアを「The Grass Roots(グラス・ルーツ)」に改名させて打開。

 このバンドはデビュー当時は鳴かず飛ばずだったものの1967年にイタリアのグループ、ローグスの「Live For Today」をカヴァーして全米8位となるヒットを放った。

 同じころにソングライターとして頭角を現していたジミー・ウェッブ(Jimmy Webb)は、「自らシンガーになることを試みた最初のソングライターだった」と、スローンのことを高く評価していた

 優れたソングライティング・チームには良くあることだが、スローン&バリもまたデモ・テープの完成度が高いことでも知られた。

 この為、彼らの作ったデモ・テープがそのままレコードとして発売されることもあった。

 その例が前述のグラス・ルーツという名義で発売された「Where Were You When I Needed You」。

 この曲のヒットをきっかけに、スローンは自らアーティストとして活動したいという強い希望を持つに至る。

 こうして1965年、66年と続けて後述のようにダンヒルからソロアルバムを発表したが、彼はソングライター、プロデューサーとしての仕事が忙しく、ソロ・アーティストとしてステージに立てないなどの制約があった

 そのせいもあってか彼名義のレコードは、彼がスタッフとして関わったレコードのような成功を収めることはできなかった。

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自由を手に入れる代償はあまりに大きかった

 P.F.スローン(P.F.Sloan)は、ダンヒル・レコード繁栄の大功労者だが、実際はプロデューサーのルー・アドラーに週給数ドルで雇われたミュージシャンだった。

 従って、スローンは楽曲を製造する機械として朝から真夜中まで創り続け、出来上がった楽曲から、順次デモ・テープを録音するという生活だった。

 それをルー・アドラーは、ジャンとディーン、ハーマンズ・ハーミッツ、ジョニー・リバース、バリー・マクガイア、ママス&パパス、グラス・ルーツ、ステッペン・ウルフなどにレコーディングさせレコードをリリースしていき、巨万の富を築き上げた

 ルー・アドラーは、最初からスローンをミュージシャンとして売り出す気はなかった

 スローンの望みに反し、裏方としてヒット曲を作り続けることをスローンに求めるダンヒルは、シンガーとしての活動をそれほど快くは思っていなかった。

 それに対し束縛されることなく自由に活動したくなったスローンは、そのためにダンヒル・レコードを離れることを決意する。

 だがそれは容易なことではなかった。

 ダンヒルはヒット曲を生み出す才能を持つスローンに、それまでに提供した作品の著作権をすべて放棄し、それらの曲をレコーディングしたり、演奏したりしないと約束するならば自由を与えるという厳しい条件を提示してきた。

 誰もが受け入れがたい条件を出すことで、スローンをダンヒルに留めようとしたのである。だがスローンは悩んだ末に、この条件を受け入れた。

 ところが、こうしてようやく自由を手に入れたスローンに悲運が襲った。彼は鬱病と緊張病に蝕まれてしまう。

 彼がダンヒル以後に出したアルバムは、アトコから1968年に出た『Measure of Pleasure』と1972年にマムズから出た『Raised on Records』の2枚に留まり、後者の後に彼は音楽界から完全に消え去った。尚、この間に彼は生まれ故郷のニューヨークに戻っている。

ジミー・ウェッブが作った「P.F.スローン」という曲

 「恋はフェニックス」で知られるシンガー・ソングライターのジミー・ウェッブが、その名も「P.F.スローン」という曲を作っている。

I have been seeking P.F.Sloan
But no one knows where he has gone
No one ever heard the song

 1971年にアソシエイションが取り上げ、同年2月シングル発売するもチャートインせず、同年のアルバム「ストップ・ユア・モーター」に収録された。

 イギリスの4人組ユニコーンが同年7月シングルを出すも(邦題「P.F.スローンはどこに」でビクターからシングル発売)チャートとは縁がなく、ごく一部の人達だけが密かに語り継がれてきた。

 その後いつの間にか名曲としてクローズアップされるようになった。

ユニコーンの「P.F.スローンはどこに」

 2010年にジミーが発表したアルバム「ジャスト・アクロス・ザ・リヴァー」の中では、同じくシンガー・ソングライターのジャクソン・ブラウンと二人でデュエットした。

Jimmy Webb & Jackson Browne – P. F. Sloan

Rumerのアルバムにも収録された(オープニング曲)

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