ダスティ・スプリングフィールド|ヒストリー|栄光と挫折

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  1. 要約
    1. 偉大な功績
      1. 人種偏見の無さ
        1. 南アフリカで国外退去
        2. ブルー・アイド・ソウル
      2. プロデューサーとして楽曲開発
    2. 時代遅れのアーティストとなりつつあった60年代の終わり頃
      1. 歴史的名盤と評価の高いアルバムも商業的には不発
    3. 不遇の時代を克服し復活
    4. がんとの闘い
  2. 1958年プロ歌手としてデビュー
          1. ダスティ・スプリングフィールド ブルー・アイド・ソウルの女王
          2. 史上最高のポップ・ディーヴァ ー ダスティ・スプリングフィールド
  3. 人気歌手としての地位を確立
    1. モータウン・サウンドの虜となる
    2. ソロシンガーとしての地位を確立
      1. Ready Steady Go! sound of motown 1965
  4. 地道な活動を続け名作を残す
      1. The Look Of Love(恋の面影) – Dusty Springfield
      2. ●歴史的名盤「Dusty In Memphis」
  5. ●ブルー・アイド・ソウル
      1. Son Of A Preacher Man(プリーチャー・マン)
      2. 映画「Pulp Fiction(パルプ・フィクション)」のサントラ盤
      3. Yesterday When I Was Young
      4. この原曲はこちら  Hier Encore – Charles Aznavour 1972年
  6. 不遇の時代を克服し復活を果たした1987年の曲
      1. What Have I Done To Deserve This? – Pet Shop Boys & Dusty Springfield
      2. 1990年にダン・ハートマンをプロデューサーに迎えたアルバム「Reputation(レピュテイション)」を発表し、「In Private(イン・プライベイト)」がクラブ・チャートで大きなヒットとなった。
  7. ●ダスティ・スプリングフィールドの私生活
  8. ●完璧主義と周辺との衝突
  9. ●80年代の復活
  10. ●元祖スーパーウーマン
  11. 1999年乳がん再発のため死去

要約

 この記事では英国の産んだ大歌手ダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield)の人生について、その栄光と挫折のあゆみを紹介する。

 記事の全部を読まなくても手軽に概要を把握できるようにこの要約にまとめたので時間のない方はこの要約のみを読めばほぼ全容を理解できるようにした。

偉大な功績

人種偏見の無さ

南アフリカで国外退去

 64年コンサートツアーで訪れた南アフリカで当時のアパルトヘイト政策を無視して黒人も入場させたことから国外退去を命じられる。

ブルー・アイド・ソウル

 兄たちと組んだフォークグループの62年全米ツアーでモータウンサウンドの虜となる。「White Lady Of Soul」というニックネームを与えられ、英国にいち早くモータウンサウンドを自分のTV番組で毎週紹介するなど英国での普及に大きな役割を果たした。

 白人でも、黒人音楽を本当に理解し、同格の魂を感じる音楽ができる人を「ブルー・アイド・ソウル」と呼び、黒人たちから仲間として、同志として、理解と尊敬の念で迎えられ、ポップ音楽史上最も重要な「ブルー・アイド・ソウル」となった。

プロデューサーとして楽曲開発

 初期の代表曲のいくつかは非英語曲を自ら英語曲としてカバーし、世界的ヒットからスタンダードナンバーとしたものである。

 「この胸のときめきを」や「行かないで」がその例であるが、現在の音楽業界のように明確に役割分担されていなかった当時において、自分が感動した曲を自分自身が直接交渉して英語詞をつけたカバー曲とし、世界的大ヒットとしたものである。

 そのためダスティの曲は厳密にはカバー曲の一つとすべきところ、当ブログにおいてはオリジナルとしての地位を与え、その後続々と発売された大物歌手のカバー曲とは一線を画している。

時代遅れのアーティストとなりつつあった60年代の終わり頃

 60年代の英国を人気絶頂のまま駆け抜けたダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield)も、60年代の終わり頃になりビートルズ旋風が吹き荒れると時代遅れのアーティストとして扱われるようになってくる。

 白人でありながらも本物のソウル・シンガーとして認めていたアトランティック・レコードは、そんな境遇のダスティをソウルの本場アメリカへと招いた。

歴史的名盤と評価の高いアルバムも商業的には不発

 テネシー州メンフィスでソウル・ミュージックの最高傑作の1つとして、今もなお高い評価を受けている歴史的名盤「Dusty In Memphis」を完成させ1969年に発表した。

 高い評価とは裏腹に商業的に不発に終わったこのアルバムから例外的にヒットチャートにランクインした曲の中に「Son Of A Preacher Man(プリーチャー・マン)」が全英9位全米10位となった。

不遇の時代を克服し復活

 不遇の時代を迎えながらも地道に音楽活動を続けていたダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield)であったが、彼女を敬愛する後輩アーティストからのオファーにより新しい展開となる。

 1987年Pet Shop Boysとのコラボ作品「What Have I Done To Deserve This? (とどかぬ想い)」により久々に脚光を浴びた。

 また1990年にダン・ハートマンをプロデューサーに迎えたアルバム「Reputation(レピュテイション)」を発表し、「In Private(イン・プライベイト)」がクラブ・チャートで大きなヒットとなった。

がんとの闘い

 1994年ダスティは乳がんと診断され、手術を受け、一時は快方に向かった。

 しかし1997年に再発し、1999年3月9日59歳の若さでこの世を去った。

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1958年プロ歌手としてデビュー

 イギリスが生んだ偉大な白人ソウルシンガーの一人で元祖ブルー・アイド・ソウル・シンガー、1939年4月ロンドンの西ハムステッド生まれ。

 1958年にイギリスのヴォーカル・グループ「ラナ・シスターズ」のメンバーとしてプロ歌手デビューを果たす。

 60年には兄のディオン、ティム・フィールドとの3人でフォーク・トリオ「ザ・スプリングフィールズ」を結成し。その時からダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield)と名乗るようになった。

 手短にダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield)のことを知りたいという人向けには以下2つののサイトを紹介したい。いずれもダスティに対する愛情と尊敬にあふれ、かつ詳細、また深い音楽的知識に裏打ちされた解説は他の追随を許さない秀逸なもので非常に参考になる。

ダスティ・スプリングフィールド ブルー・アイド・ソウルの女王
史上最高のポップ・ディーヴァ ー ダスティ・スプリングフィールド
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人気歌手としての地位を確立

モータウン・サウンドの虜となる

 「慕情のなぎさ(Island of Dreams)」(全英5位全米129位)などのヒット曲を生み、イギリスの人気グループになった「ザ・スプリングフィールズ」は、1962年全米ツアーの際に訪れたテネシーで、モータウン・サウンドに接しダスティはその虜となった。

 彼女は元々黒人への偏見のない人で、ニックネームが「White Lady Of Soul」と呼ばれるほどモータウン・サウンドを次々とイギリスに移植し、より洗練された、気品のある親しみやすいソウル・ポップに仕立て、当時のヒット・チャートを席巻し、白人ソウル・シンガーの第一人者となった。

 なおスプリングフィールズ時代の動画は既に「ライオンは寝ている」の記事中で紹介済みであるので興味のある方は参考にされたい。

ソロシンガーとしての地位を確立

 63年にスプリングフィールズを脱退しソロシンガーとなり、「二人だけのデート」でデビューを果たす

 外見上の特徴として円錐形に結い上げたブロンドの蜂の巣ヘアー「パンダの目」と呼ばれた濃いマスカラは、彼女のトレード・マークとして有名になった。

 1964年コンサートツアーで訪れた南アフリカでは、政府のアパルトヘイト政策を無視して、人種の区別なく同じ劇場に観客を入れたため国外退去になりツアーが中止になってしまった。

 それでも同年、そして翌年と続けてイギリスのグラミーともいえるNME賞で最高女性アーティスト賞を受賞する人気ぶりであった。

 こうした英国での人気ぶりにダスティは「Ready Steady Go!」という自身のテレビ番組まで持つようになった。

 その番組の特番としてダスティはサウンド・オブ・モータウンという特集を企画する。モータウンの良さをイギリスの人達にもっと知ってもらいたいという彼女の意欲の現れであった。

Ready Steady Go! sound of motown 1965

 この贅沢な特別番組にはキラ星のごとくモータウンのスターが勢揃いしたという。

 ファンク・ブラザーズを引き連れて海を渡ったのは、マーサ&ザ・ヴァンデラス、シュープリームス、テンプテーションズ、スモーキー・ロビンソン、ミラクルズ等々

地道な活動を続け名作を残す

 1967年には、映画「007カジノ・ロワイヤル」の主題歌「The Look Of Love(恋の面影~カジノ・ロワイヤル)」を歌い、全米22位を獲得しアカデミー賞主題歌賞にもノミネートされた。

 この曲はセルジオ・メンデスのカバーでもヒットし、その後も数え切れないくらい多くの歌手が歌うボサノバ調の曲である。

The Look Of Love(恋の面影) – Dusty Springfield

 ダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield)はバート・バカラックの曲もたくさん歌っている。ダスティの歌についてバカラックは「彼女の声はスモーキーでセクシー。囁くように燃える声とでもいうか・・・ロマンスと情熱とクールさを感じるんだよ」と絶賛している。

同じく1967年のアルバム「Where Am I Going?」ではこの「行かないで」やジャズ風アレンジの「サニー」が収録されている。

●歴史的名盤「Dusty In Memphis」

 ダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield)が時代遅れのアーティストとなりつつあった60年代の終わり頃。そんな彼女を、白人でありながらも本物のソウル・シンガーとして認めていたアトランティック・レコードは、ソウルの本場アメリカへと招いた

 ダスティはアトランティック・レコードと契約し、彼女がソウル・ミュージックに開眼したきっかけとなった場所であるテネシー州メンフィスで、新しいアルバムの製作にとりかかった。

 こうして完成したアルバムは「Dusty In Memphis」と題され、1969年に発表された。

 商業的には必ずしも成功したとは言えなかったが、このアルバムはダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield)の代表作として、またソウル・ミュージックの最高傑作の1つとして、今もなお高い評価を受けている歴史的名盤となった。

 このアルバムからは「Son Of A Preacher Man(プリーチャー・マン)」が全英9位全米10位のヒットとなった。この曲はもともとアレサ・フランクリンのために書かれた曲だった。

 しかしアレサが気に入らずに却下したという話を聞いたダスティがレコーディングし、大ヒットさせたという経緯があった。

 ところがこのダスティのバージョンに刺激を受けたのか、アレサは改めてこの曲をレコーディング。

 アレサのバージョンを聴いて”負けた”と思ったダスティだったが、偶然アレサと同じエレベーターに乗り合わせた彼女の腕をアレサは抱きしめて”この娘ったら・・・”と嬉しそうにつぶやいたという。ダスティにとっては尊敬する先輩からの最大の賛辞だった。

 またこの曲は、後にクエンティン・タランティーノ監督の大出世作となった1994年の映画「Pulp Fiction(パルプ・フィクション)」のサントラ盤に収録され再度のヒットを記録した。




●ブルー・アイド・ソウル

 人種問題が大きなテーマだった当時、アメリカの黒人たちが「これが自分たちのアイデンティティだ」と、世界に訴えてきた音楽が「ソウル音楽」だった。

 そんな中、白人でも、黒人音楽を本当に理解し、同格の魂を感じる音楽ができる人を「ブルー・アイド・ソウル」といって、黒人たちから仲間として、同志として、理解と尊敬の念で迎えられたアーティストたちのことである。

 そしてダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield)はポップ音楽史上最も重要な「ブルー・アイド・ソウル」である

 番組で共演したマーサ・リーヴスはダスティとの初対面の思い出をインタビューで語っている。

「イギリスから来たダスティさんに会ってくれと言われて楽屋の前まで来たら、中から物が投げつけられて割れるすごい音がするのよ、びっくりして、それでもドアを開けられたから中に入ったら、そこにいたのは発作を起こしているとしか思えないダスティだったの」

 しかしマーサは

「ダスティは真のソウル・シンガーよ。ソウル・シンガーというと、黒人じゃなきゃなんて思ってる人がいるみたいだけど、そんなことは関係ないわ。歌でソウルを表現出来る人がソウル・シンガーなのよ。ダスティにはそのソウルがあったわね。」

 と絶賛している。

アルバム「Dusty In Memphis」から

Son Of A Preacher Man(プリーチャー・マン)

映画「Pulp Fiction(パルプ・フィクション)」のサントラ盤

Yesterday When I Was Young

この原曲はこちら  Hier Encore – Charles Aznavour 1972年

不遇の時代を克服し復活を果たした1987年の曲

What Have I Done To Deserve This? – Pet Shop Boys & Dusty Springfield

1990年にダン・ハートマンをプロデューサーに迎えたアルバム「Reputation(レピュテイション)」を発表し、「In Private(イン・プライベイト)」がクラブ・チャートで大きなヒットとなった。

●ダスティ・スプリングフィールドの私生活

 彼女が初めて、そしてその生涯でただ一度だけ、性的指向について公に語ったのは、アルバム「Dusty In Memphis」を発表した翌年1970年のことだった。

 彼女は「The Evening Standard」紙のインタビューに応じて、次のように語った。

 『沢山の人達が、私のことを同性愛者だって言ってる。何度も耳にしてきたせいで、もうほとんど慣れっこになってしまったけどね。そうね、私は男の子によろめいてしまうように、女の子にも完全に参ってしまうこともあるわね。』

 この発言は今日の基準では多分に曖昧さを孕んでいるが、当時としては非常に大胆で、かつ衝撃的だった。しかし、彼女が媒体上でプライベートな話題に触れたのはこれ一度きりだった。

 1999年に亡くなるまで、彼女は自分の性的指向については、これ以上のことを一切語らなかった。

●完璧主義と周辺との衝突

 「Dusty In Memphis」に続く作品群も、批評家からは好評であるものの商業的には成功しないという状況が続いた。

 その結果1970年代のダスティは数々のレコード会社を転々とすることとなった。

 レコーディングにおけるダスティの極端なまでの完璧主義は、しばしばスタッフとの衝突を招き悪評を買った。

 「やりづらい人」のレッテルを貼られたこともあった。感情を爆発させて、手近の物を相手に投げつけることも頻繁にあったという。

 それに加えて自分の作品を自分自身でプロデュースしようとするダスティの姿勢は、男性優位の音楽業界の中にあって、当時は全く受け入れられなかった。神経質な彼女は、精神が不安定になり、自殺未遂まで犯す。

 1970年代半ばには彼女のキャリアは完全に停滞に陥り、エルトン・ジョンのヒット曲「あばずれさんのお帰り(The Bitch Is Back)」のバックコーラスを務めたのはこの頃であった。

 1970年代後期になると、商業面での実績を上げられなくなった彼女は、レコード会社の意向に従わざるを得なくなり、不本意な作品もレコーディングしなければならなくなった。

 中には、レコーディングはしたもののリリースには到らなかった作品もある。1970年代はダスティには暗黒の時代だった。ドラッグやアルコールに溺れるようになった彼女は、何年にも渡って病院やリハビリ施設の入退院を繰り返した

●80年代の復活

 1983年にダスティはロサンゼルスで、長年のドラッグとアルコール中毒を克服。

 そして1986年、彼女の長年の友人だったヴィッキー・ウィッカムが、ダスティのマネージャーに就任した。ウィッカムは全盛期のダスティが頻繁に出演していたイギリスのTV番組「Ready Steady Go!」のプロデューサーだった人物であり、非常に才覚ある女性だった。

 更に、以前からダスティを敬愛していたペット・ショップ・ボーイズがダスティとの共演を申し込んできた。

 彼らとレコーディングした「What Have I Done To Deserve This?(とどかぬ想い)」(「行かないで」の記事で紹介する)は全英・全米共に2位を記録し、全米での彼女の最高記録となった。

●元祖スーパーウーマン

 ダスティがあの時代に大西洋を行き来しながらイギリスとアメリカの両方でレコーディングを行っていたという事実は非常に重い。

 まだアメリカの漆黒のディーバ達が自由公民権運動が高まりつつあった60年代であっても、女であり、黒人であるという二重苦を背負った中で、先輩達がビッグバンドのお飾りとして活躍の場を得てきたのと基本的な構図は変わらず、強力なプロデューサーの支配下で活動するという縛りから逃れられなかった時代。

 天才少女と早くから注目を集めたアレサですら白人資本に飼い殺しされていたことを考えると、自分自身でどの曲をどのプロデューサーとどこでレコーディングするかを決め、大西洋を股にかけて世界中を飛び回っていたなんて、まさにスーパーウーマン、自立した女性像がはっきりと浮かんでくる。

 そして彼女はイギリス人だったために、人種の壁というものを意識せずにいろいろなアーティストと接していたことも見逃せない事実。

 アメリカでディオンヌの歌声がラジオから流れてきた時に「こんな風に歌えるようになりたい!」と思えばバカラックにアプローチし、DJ主催のコンサートでモータウンレヴュー達と出会うとその魅力に気づき、すぐにイギリスにとんぼ返りして、イギリスのテレビとの橋渡しになり、モータウン一行を渡英させてしまうなんてアーティストを超越してまるでプロデューサーのような仕事っぷり。

 自らのレコーディング作品においてもアレサに刺激を受け、メンフィスでジュリー・ウィクスラーの指揮のもとマッスルショールズチームと歴史的レコーディングを残したり、いち早くフィラデルフィア詣でをしたりといった随所に反映されている。

 そんなダスティの残した作品に触れ、人物像に思いをはせればはせるほど、「とどかぬ想い」がヒットした時にボーイ・ジョージが「ペット・ショップ・ボーイズはずるい。自分だって・・・」と嫉妬をにじませるコメントをした本当の意味がじんわりしみてくる。

1999年乳がん再発のため死去

 1969年、人気はやや下降気味となったが、アトランティックの重鎮を制作陣に迎えブルー・アイド・ソウルの名盤「Dusty In Memphis」を発表し評論家から絶賛される。

 しかし商業的には成功とは言えず、以後長期のスランプ状態に陥る。

 1970年代のダスティは、数々のレコード会社を転々とすることになり、精神的にも不遇の時代であった。

 1983年に、ダスティはロサンゼルスで長年のドラッグとアルコール中毒を克服する。

 1986年、以前からダスティを敬愛していたペット・ショップ・ボーイズとレコーディングした「What Have I Done To Deserve This?(とどかぬ想い)」が全英と全米で共に最高位2位という大ヒットを記録した。

 1994年アルバム「A Very Fine Love」の発表後まもなくダスティは乳がんと診断され、手術を受け、一時は快方に向かったものの、1997年に再発し、1999年3月9日59歳の若さでこの世を去った

 ダスティがロックの殿堂入りを果たす5日前のことであった。彼女の死の直前には大英帝国勲位(OBE)が贈られている。

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