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愛の賛歌(If You Love Me”L’Hymne a l’amour)~Edith Piaf,Blenda Lee

A--E
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はじめに

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 フランスのシャンソン歌手エディット・ピアフ(Edith Piaf)の歌である。原題は”L’Hymne a l’amour”。作詞エディット・ピアフ、作曲マルグリット・モノー。妻子を持つプロボクサーとの恋愛に終止符を打つ為に書いたと考えられている。日本ではブレンダ・リー(Blenda Lee)のカバーもヒットした。

エディット・ピアフのオリジナル盤ジャケット

歴史に名を遺したエディット・ピアフ(Edith Piaf)とは

 日本の歌手の中にも彼女を神のように崇拝する人達が多数いる。もちろん世界中に彼女の残した足跡は今もなお語り継がれている。フランスで最も愛され、尊敬されている歌手の一人である。彼女の音楽は傷心的な声を伴った痛切なバラードであり、その悲劇的な生涯を反映している。

 いうまでもなくエディット・ピアフはフランスを代表するシャンソン歌手で、代表曲としては

  ばら色の人生(La vie en rose) 1946年
  愛の賛歌(L’Hymne a l’amour) 1949年
  ミロール(Milord)          1959年
  水に流して(Non,je ne regrette nen) 1960年

などがある。

誕生からデビューまで

 エディット・ピアフは1915年12月19日にパリ20区の病院で生まれた。父は大道曲芸師、母は大道歌手であった。時は第一次世界大戦勃発のさなかで父は軍隊に、母は出産から2か月後に幼いピアフと夫を棄てて蒸発。

 ピアフは母方の祖母の元に預けられたが、この祖母というのがノルマンディーに住み、娼家で働く慢性アルコール中毒。そんな祖母は幼いピアフに、なんとミルク代わりに哺乳瓶に赤ワインを入れ飲ませていたという今なら幼児虐待状態。

 哀れなピアフは鬼祖母のせいで幼くしてアル中状態。おかげで白内障を患い失明してしまった。ところが3年後聖地ルルドに巡礼したピアフは奇跡的に光を取り戻すことが出来た。

 以降ピアフは超自然現象を信じるようになり、自伝の中でも奇跡とか神の恩寵という言葉を繰り返している。

 娼婦と酔客の中に少女を置くことを司祭に諫められた父はピアフを手元に引き取り、10歳の彼女は父と共に放浪生活を送るようになった。父が芸をしている間に、ピアフは帽子を持って見物人の間を回ってお金を集める。こうした生活の中で、彼女自身も唄い自分の声の能力を発見した。

 1932年ピアフは見物人の中にいた男と同棲を始め、翌年愛娘”マルセル”が生まれた。この間にも外人部隊の兵隊との情事があり、作詞家”レイモン・アッソー”がこの話を後日「モノ・レジオネール(私の兵隊さん)」という曲にしたという。そして2年後ピアフ18歳の時、ピアフは愛娘”マルセル”を脳膜炎で亡くし、夫とも別れる。

 1935年街角で歌っていたピアフの歌声をキャバレー経営者”ルイ・ルブレ”が耳に留め、パリで最高級キャバレーの一つ”ジェルニーズ”に出演させる契約を結んだ。



 この時から身長142㎝と小柄であったことから雀のような小娘という意味の「ラ・モーム・ピアフ(La Mme Piaf)」という芸名でステージに立つようになった。街頭で鍛え上げた彼女の歌声は客を驚かせ、たまたまお忍びで来ていたシャンソン歌手でありフランス映画界の名優”モーリス・シュヴァリエ”が立ち上がって「ブラボー!!」と叫んだ。

 1936年”ルイ・ルブレ”は彼女に最初のレコード「Les Mome de la cloche」を録音させた。その直後の4月”ルイ・ルブレ”がトルコ風呂の中で殺害され、彼女に嫌疑がかかった。警察に殺人容疑者として逮捕されルが、結局証拠不十分で釈放された。

 そんな時ピアフは新進作詞家”レイモン・アッソー”に救いを求めた。”レイモン・アッソー”は3年の年月をかけて彼女を変身させることになった。

 ”レイモン・アッソー”はピアフのために女流作曲家”マルグリット・モノ”と共に「私の兵隊さん」「連隊旗」「哀れな黒人の旅」「私は終わりを知らない」などピアフの初期のヒット曲を書いてくれた。

 ピアフは”レイモン・アッソー”のおかげで愛を信じ、愛の為に生きる人間に生まれ変わった。そしてついに、芸名も「エディット・ピアフ」に変える。1937年彼女が23歳の時であった。

栄光の階段を上り始めるピアフ

 パリ最大のミュージックホールの一つ「ABC」の公演で成功を収め、ようやく彼女は栄光への階段を登ることが出来、そして最初の映画「ギャルソンヌ」を撮り、「ボビノ」ではポスターのトップを飾ることが出来た。

 1940年エディット・ピアフはコメディアンの”ポール・ムリス”と出会う。二人の関係は2年続いたが性格は正反対であった。彼は優雅・冷静・控え目で、ピアフに行儀と振舞いを教えた。

 1940年に”ジャン・コクトー”はピアフと彼のために「Le Bel indifferent」を書き成功を収めた。この作品でピアフは演劇の才能も開花させた。また二人は”ジョルジュ・ラコンブ”監督の映画「Monmartre sur scene」に出演し、この映画の撮影で後に彼女の主要な作曲家の一人となる”アンリ・コンテ”と出会った。

 1944年ピアフは30歳に近かったが23歳の青年”イヴ・モンタン”に出会い、愛した。ピアフは彼のデビューに尽力し、衣装からレパートリーまで全ての面倒をみた。そして”アンリ・コンテ”に”イヴ・モンタン”の終生のレパートリーとなる「闘うジョー」「ルナ・パーク」などの曲を書かせた。

 1945年には映画「光のない星」で共演もした。そしてこの年の終わりにピアフは単独で最も人気のあるシャンソンの一つ「ラ・ビアン・ローズ(ばら色の人生)」を作曲した。クレジットでは共作ということになっているのはピアフが作曲家協会の会員資格が無かったからである。以降生涯で彼女は約80曲を作曲している。

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そしていよいよ「愛の賛歌」へ

 1946年ピアフは青年コーラスグループに「三つの鐘」をレコーディングさせ、これが100万枚の大ヒットとなった。1947年には彼らを伴い初のアメリカ公演を果たす。

 ニューヨークのキャバレー「Playhouse」での初コンサートは不発に終わったものの、ニューヨークの大新聞の一つが好意的な批評を載せていたのを読んで、ニューヨークに残りマンハッタンのキャバレー「ヴェルサイユ」と1週間の出演契約を結んだ。このコンサートが大成功を収め、結局4か月間滞在した。そして翌年以降毎年出演するようになった。

 このニューヨークではピアフにとり重要な二つの出会いがあった。一つは女優・歌手の”マルレーヌ・ディートリッヒ”との出会い。二人の関係はピアフの死まで続く。そしてもう一つがプロボクサーの”マルセル・セルダン”との運命的な出会いである。

 ピアフは”マルセル・セルダン”を熱愛するようになった。このロマンスは新聞の格好の標的となった。ピアフの彼に対する愛情は数多い彼女の恋愛遍歴の中でも最も激しく真剣なものであった。

 ところが1949年10月”マルセル・セルダン”はパリ・ニューヨーク間を飛ぶ飛行機の墜落事故により急逝。実はパリでの試合後”マルセル・セルダン”は、航路でピアフのもとへ帰る予定であった。「早く私に会いに来て」という彼女の言葉で、急遽航路から空路へ変更したのだった。

 その夜ピアフはニューヨークの「ヴェルサイユ」で歌っていた。最初の曲を歌う前に客席に向かって、「今晩、私はマルセル・セルダンのために歌います。誰のためでもなく、彼のために歌います。」と言った。

 マルセルの死後、ピアフは麻薬に耽るようになり、一時は死を思い詰め降霊術に救いを求めたピアフが、そのような状況下で作詞したのが、不滅の名曲『L’Hymne a l’amour(愛の賛歌)』である。

 この歌にはたとえ死が二人を引き離しても、愛するアナタと永遠に結ばれていたいというピアフの切実な気持ちが込められていた。この背景を理解すれば日本で最も聞かれた訳詞とはかけ離れた内容の歌であることがわかるだろう。

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エディット・ピアフの歌声と映像

前置きが長くなったが、まずはエディット・ピアフ(Edith Piaf)のオリジナルから聞いてみたい。

L’Hymne a l’amour  – Edith Piaf

Edith Piaf – L'hymne à l'amour + Paroles

映画の中で歌っているシーンや他の映像も合成している

愛の讃歌 エディット・ピアフ

SP盤の音源

エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜Edith Piaf – Hymne à l'Amour ~



エディット・ピアフの再来といわれるミレイユ・マチュー(Mireille Mathieu)も聴きごたえがある。 ミレイユ・マチュー(Mireille Mathieu)

Mireille Mathieu – L'hymne a l'amour

ブレンダ・リーのカバー

 ポップスの魅力に目覚めたころ、その視界にはエディット・ピアフなんてある訳もなく、日本でポップス調にアレンジした「愛の賛歌」をブレンダ・リーがヒットさせたのが、この曲に接した最初であった。

 そういえば母の世代が越路吹雪だとか岸洋子だとかピアフだとか騒いでいたような気がする。

 従って「愛の賛歌」の定番は自分にとってはいつまでもブレンダ・リーのままなのである。

Sweet Nothin's~Brenda Lee
パンチの効いた歌い方は「ミス ダイナマイト」と呼ばれるに相応しい強烈な個性が魅力であった。60年から63年にかけては大ヒットを連発して、日本でもコニー・フランシスと双璧をなしていた。田代みどりがカバー盤を出している。

Blenda Lee(ブレンダ・リー)

Brenda Lee – If You Love Me (Really Love Me)

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数え切れないカバー曲

ジャクリーヌ・フランソワなど当時から現在に至るまでカバー曲が数え切れないほど発表されているのは当時から既に名曲の扱いを受けていたようだ。

Jacqueline Francois(ジャクリーヌ・フランソワ)

愛の賛歌 ジャクリーヌ・フランソワ

パロマ・サン・バシーリオ(Paloma San Basilio) – Himno al amor

不朽の名曲の証、今もなお歌い継がれている。グラミー賞を獲得しているスペインのミュージカルスター。

PALOMA SAN BASILIO. Himno al amor.

パリ同時多発テロの犠牲者に捧げられた セリーヌ・ディオン(Celine Dion)

Celine Dion – Hymne à L'Amour (Live at American Music Awards AMAs 2015) HD
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ピアフ没後50周年のイベント カメリア・ジョルダーナ(Camelia Jordana)

PIAF – Camélia Jordana : L'hymne à l'amour 05/10/13 France 2

Dyango – Himno al Amor

Himno al Amor. Dyango

日本における「愛の賛歌」

 日本でエディット・ピアフといえば、岩谷時子訳詞の「愛の讃歌」を歌った越路吹雪や、1979年にエディット・ピアフの生涯を描いた演劇「愛の讃歌」を初演した美輪明宏などが有名。

 また2007年9月には、エディット・ピアフの人生を描いた映画「エディット・ピアフ~愛の讃歌~」が全国で公開された。

「エディット・ピアフ~愛の賛歌~」ストリートチルドレンからシャンソンの女王へ
今ではもうシャンソンは前世紀の遺物みたいに思われているが、戦後フランスから「巴里祭」などの映画と一緒にシャンソンがどっと入って来た。僕もシャンソン喫茶「銀巴里」に入り浸り、丸山明宏(今の美輪明宏。昔は美男だった)、戸川昌子(作家になる前)、仲代圭吾(達矢の弟、ビロードのような声)、くどうべん(東北弁で歌う)に聞き惚れて...

 日本でも大ヒットしてスタンダードナンバーとしてカバーも数多い。その中でも年配の人にとり越路吹雪の持ち歌というイメージが強いのではないだろうか。日本での大ヒットの要因の一つに岩谷時子の訳詞の持つ役割が大きいと思うが、この曲でも原詩の持つ激しい意味は影を潜め、甘い愛の歌に変身してしまっているのは岩谷時子の他の訳詞と同じである。



 邦題についてー越路吹雪が歌った当初は「愛の讃歌」が使われていたが、現在は「愛の賛歌」が用いられることが多いので、限定的に「愛の讃歌」を使うがそれ以外では後者を使うことにする。

 越路吹雪って良く見ると美人じゃないけど不思議な魅力を持っていたように思う。美醜というのはそのバックにあるものを含めて感じ取るものと感じる。

越路吹雪ー愛の讃歌

越路吹雪 – 愛の讃歌 (from 「越路吹雪 華麗なる世界」)

美輪明宏

美輪明宏さん 「愛の賛歌」

由紀さおり

愛の讃歌 由紀さおり (可愛い実力者)

本田美奈子

愛の讃歌 / 本田美奈子

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沢田研二

沢田研二 愛の賛歌

加藤登紀子

加藤登紀子  愛の賛歌

戸川昌子

戸川昌子/愛の賛歌
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<歌詞(仏語原詩)>

       原詩を対訳しているので意味を知りたい方には参考になる。
         上記の対訳と下記の岩谷版訳詞を比較するとその大きな差に驚くであろう。
         当時の日本では甘ったるい物語にしないと受け入れられなかったのか?
  Le ciel bleu sur nous peut s’effondrer,
  Et la terre peut bien s’ecrouler,
  Peu m’importe si tu m’aimes,
  Je me fous du monde entier.

  Tant qu’ l’amour innondera mes matins,
  Tant qu’mon corps fremira sous tes mains,
  Peu m’importent les problemes,
  Mon amour, puisque tu m’aimes.

  J’irais jusqu’au bout du monde,
  Je me ferais teindre en blonde,
  Si tu me le demandais.
  J’irais decrocher la lune,
  J’irais voler la fortune,
  Si tu me le demandais.

  Je renierais ma patrie,
  Je renierais mes amis,
  Si tu me le demandais.
  On peut bien rire de moi,
  Je ferais n’importe quoi,
  Si tu me le demandais.

  Si un jour, la vie t’arrache a moi,
  Si tu meurs, que tu sois loin de moi,
  Peu m’importe si tu m’aimes,
  Car moi je mourrais aussi.

  Nous aurons pour nous l’eternite,
  Dans le bleu de toute l’immensite,
  Dans le ciel, plus de probleme,
  Mon amour, crois-tu qu’on s’aime?

  Dieu reunit ceux qui s’aiment.

<歌詞(英語詞)>

If the sun should tumble from the skies if the sea should suddenly run dry
If you love me really love me let it happen I won’t care
If it seems that everything is lost I will smile and never count the cost
If you love me really love me let it happen darling I won’t care
Shall I catch a shooting star shall I bring it where you are if you want me to I will
You can set me any task I’ll do anything you ask if you only say you love me still
When at last our life on earth is through I will share eternity with you
If you love me really love me let it happen I won’t care
If you love me really love me let it happen I won’t care



<歌詞ー日本語> 

 訳詞 岩谷時子

あなたの燃える手で 
あたしを抱きしめて
ただ二人だけで 
生きていたいの

ただ命の限り あたしは愛したい
命の限りに あなたを愛するの

頬と頬寄せ 燃えるくちづけ 交わす喜び
あなたと二人で暮らせるものなら 
何にも要らない

何にも要らない あなたと二人 
生きて行くのよ
あたしの願いはただそれだけよ 

あなたと二人固く抱きあい 
燃える指に髪を絡ませながら 

いとしみながら くちづけを交わすの 

愛こそ燃える火よ あたしを燃やす火
心溶かす恋よ

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