【邦題と歌詞は無関係】アイドルを探せ|シルヴィ・バルタン

Artist(English)
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  1. はじめに
  2. シルヴィ・バルタン(Sylvie Vartan)のプロフィール
          1. デビュー当時のプロフィール写真
          2.   2009年のプロフィール写真
    1. 楽曲のあらまし
    2. 今もなお存在感を保ち活動中
    3. シルヴィ・バルタン(Sylvie Vartan)の生まれと育ち
    4. 偶然のデビュー
  3. 曲名の由来 邦題のタイトルと歌詞の内容が無関係となった経緯
  4. シルヴィ・バルタン(Sylvie Vartan)の動画
          1. 日本発売盤のジャケット(1964年11月)
          2. 映画公開中に発売されたシングル盤ジャケット
          3. 1963年アメリカ・ナッシュビルで録音された第3作アルバム「夢のアイドル(Sylvie a Nashville)」
      1. 同名映画の中で歌っている
      2. 64年にオランピア劇場でビートルズと共演
      3. 成熟したシルヴィ・バルタン(Sylvie Vartan)
  5. ★映画★ 邦題「アイドルを探せ」原題「Cherchez L’idole」1963年(日本公開1964年11月)
          1. 映画「Cherchez L’idole」のパンフレット
          2. 日本公開のパンフレット
          3. 同上のパンフレットの外袋
  6. カバーセレクション
      1. マリー・ミリアム(Marie Myriam)
      2. Sofia Essaïdi
      3. Nolwenn Leroy & Stomy Bugsy
      4. Thanh Lan ベトナム人人気歌手
      5. Michèle Richard
  7. ★日本でのカバー★
      1. ザ・ピーナッツ
      2. 弘田三枝子
      3. 岡崎友紀
      4. 中尾ミエ
          1. ヒット当時のジャケット
      5. 石嶺聡子
      6. 岡村有希子
  8. ★頻繁な来日公演歴
  9. ★フレンチポップスとイェイェの女王
  10. ★レナウンのワンサカ娘CM(1965年)
  11. ★「ウルトラマンのバルタン星人」由来諸説
  12. <歌詞>

はじめに

 日本でシルヴィ・バルタン(Sylvie Vartan)の「アイドルを探せ(La Plus Belle Pour Aller Dancer)」が大ブームを巻き起こしたのは1964年(昭和39年)の東京オリンピックの年であった。

 当時高校生であった自分も彼女にノックアウトされた一人であった。

 現在のように歌っている動画を見る機会は殆どなく、静止画像でさえなかなか見られなかった時代なのだが、その数少ない画像に接して歌っている彼女の姿は妖精のように思えた。

 原題「La Plus Belle Pour Aller Danser」、邦題「アイドルを探せ」

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シルヴィ・バルタン(Sylvie Vartan)のプロフィール

デビュー当時のプロフィール写真

  2009年のプロフィール写真

楽曲のあらまし

 作詞は歌手・俳優のシャルル・アズナブール(Charles Aznavour)作曲はジョルジュ・ガルヴァランツ(Georges Garvarentz)のコンビ。

 なおこの曲は1963年アメリカ・ナッシュビルのRCA本拠地でエルヴィス・プレスリーのオーケストラやコーラスと共に直接同時録音したアルバム第3作「Sylvie a Nashville」に収録されたものである。

今もなお存在感を保ち活動中

 それから半世紀以上経過した現在もなお新譜を発表しステージ活動を続けている彼女を支持するファンは世界中に多く、もちろん日本でも今なおCMに楽曲が採用されていることから明らかなように現役のアーティストとして存在感を保っている。

 そのことはネットのWikipediaの記載内容が他に類を見ないほど詳細で充実していることからも窺い知れる。

 なお名前表記についてWikipediaでは「シルヴィ・ヴァルタン」、ヒット当時のレコードジャケットでは「シルヴィ・バルタン」となっている。

 他にも「シルビー・バルタン」なども使われるが、ここでは可能な限りジャケット表記に合わせ、「シルヴィ・バルタン」を使うこととする。

 また彼女の代表作は数多いが、この「アイドルを探せ」と「あなたのとりこ」の2曲だけを記事にするため、デビューから68年の「あなたのとりこ」ヒット前までをここで扱い、「あなたのとりこ」以降現在までを別途記載する。

シルヴィ・バルタン(Sylvie Vartan)の生まれと育ち

 1944年8月ブルガリア・ソフィア近郊のイスクレッツ(Iskretz)の生まれ。

 父親はフランス国籍のアルメニア系ブルガリア人でソフィアのフランス公使館職員(外交官ではない)で、母親はハンガリー系ユダヤ人である。

 1952年12月に共産化したブルガリアから家族4人でフランス・パリへ亡命した。

 彼女は学校に行きながら生活のために働かねばならず、二年でフランス語を習得したという。

 アイドルのイメージとはかけ離れて苦労したようである。

 シルヴィは祖父・父・兄がピアノなど楽器演奏をする音楽一家に育ち、演劇学校進学を夢見ていた。

 7歳年上の兄エディは自分のバンドを持つジャズトランペッターでRCAのプロデューサーでもあった。

 動画で隠そうともせず堂々と写っているのがトレードマークとも言えるスキッ歯で、フランスでは「dents de bonheu (幸せの歯)」と呼ばれている。

偶然のデビュー

 1961年春エディが担当したデュエット制作時、突如降板した女優の代役としてデビューした。

 この6月発売のフランキー・ジョルダンとのデュエット曲「Panne d’ssence(ガス欠)」のジャケットには突然の交代劇をものがたり、男性歌手のみが写っていた。

 こうして彼女の名前が出ていないデビュー曲は意外にも100万枚を超えるヒットとなり、仏RCAと契約。

 同年12月ジルベール・ベコーのオランピア劇場公演第一部に相手役ジョルダンと一緒に招待されて初めて観客の前で歌う。

 これが著名なオランピア劇場支配人の目にとまり数週間後の別公演の出演を依頼されるなど活躍の場が次々と広がっていった。

 さらにはレコード会社の大々的なバックアップもあり
Le Locomotion(ロコモーション)」、

Tous Mes Copains(おセンチな17才)

冷たくしないで

Quand le film est triste(悲しきスクリーン)」などヒットを連発した。

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曲名の由来 邦題のタイトルと歌詞の内容が無関係となった経緯

 原題の「La Plus Belle Pour Aller Dancer」とは英訳すると「The Most Beautiful To Go To Dance」となり「ダンスに行く中で一番きれいな人」の意味である。

 シルヴィ・バルタン(Sylvie Vartan)は前年の1963年に(日本公開は1964年)「Cherchez L’idole」(邦題:アイドルを探せ)という映画に出演して主題歌としてこの歌を歌っており、日本発売にあたり映画の邦題がそのまま販促のため流用された

 そのため日本語では歌詞の内容とタイトルが全く関係ないという妙なことになった。

 歌詞の内容は、ダンスパーティのために自分で作ったドレスで誰よりも美しくなって意中の男性と恋に落ちたいという乙女心を歌っている

シルヴィ・バルタン(Sylvie Vartan)の動画

日本発売盤のジャケット(1964年11月)

映画公開中に発売されたシングル盤ジャケット

1963年アメリカ・ナッシュビルで録音された第3作アルバム「夢のアイドル(Sylvie a Nashville)」

同名映画の中で歌っている

シルヴィ・バルタン(SYLVIE VARTAN) – アイドルを探せ(LA PLUS BELLE POUR ALLER DANSER)

64年にオランピア劇場でビートルズと共演

 ヨーロッパでは既に旋風を起こしていたビートルズに男性ばかりの観客の反応が他とは全く違うと言わせた。シルヴィに食われたということ。

Vartan 1964 Olympia

成熟したシルヴィ・バルタン(Sylvie Vartan)

 若い頃の魅力とは全く異なる成熟した大人のシルヴィのアコースティック・バージョンのセルフ・カバー。聞き比べると歳月の重さを実感する。2007年

Sylvie Vartan – La plus belle pour aller danser (Album 2007)

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★映画★ 邦題「アイドルを探せ」原題「Cherchez L’idole」1963年(日本公開1964年11月)

 ミシェル・ポワロン監督作品。フランスの有名女優、歌手が実名で登場するドタバタミュージカル喜劇。

 女優ミレーヌ・ドモンジョ(Mylene Demongeot)の邸宅から高価なダイヤモンドを盗み出した男が逃げる時に楽器店の売り物のギターの中にガムに包んで隠した。

 翌日には5本あったギターは全部売れていたため、大慌てでその購入者を追う二組の男女のコメディである。

 その5人の購入者がシルヴィ・バルタン、フランク・アラモ、ナンシー・ホロウェイ、ジョニー・アリディ(Johnny Hallyday)、シャルル・アズナブール。

映画「Cherchez L’idole」のパンフレット

日本公開のパンフレット

同上のパンフレットの外袋

カバーセレクション

マリー・ミリアム(Marie Myriam)

Marie Myriam – La plus belle pour aller danser

Sofia Essaïdi

Sofia Essaïdi – "La plus belle pour aller danser" (Charles Aznavour)

Nolwenn Leroy & Stomy Bugsy

Nolwenn Leroy & Stomy Bugsy La plus belle pour aller danser

Thanh Lan ベトナム人人気歌手

La Plus Belle Pour Aller Danser – Thanh Lan

Michèle Richard

Michèle Richard –"La plus belle pour aller danser" (1964) (avec paroles)

★日本でのカバー★

 シルヴィのバージョンが日本でも100万枚以上のセールスを記録しあまりに決定盤という感じなので、この曲のカバーはそれほど多くはない。

 それでもザ・ピーナッツや弘田三枝子、中尾ミエ、珍しいところでインスト物としてザ・スパイダースがある。

 70年代以降で辺見マリや安西マリア、浅田美代子なんかも歌っていた。

ザ・ピーナッツ

メドレーの1分17秒から

ザ・ピーナッツ オールディーズメドレー

弘田三枝子

アイドルを探せ <LA PLUS BELLE POUR ALLER DANSER>

岡崎友紀

 加藤和彦プロデュースのアルバム「ドゥー・ユー・リメンバー・ミー」に収録されている。フィル・スペクター顔負けのエコー処理された見事なもの。

Yuki Okazaki – アイドルを探せ

中尾ミエ

ヒット当時のジャケット

アイドルを探せ

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石嶺聡子

石嶺聡子 アイドルを探せ

岡村有希子

岡村有希子 アイドルを探せ

★頻繁な来日公演歴

1965年5月の初来日以来2014年4月まで合計16回来日しており親日家と思われる。そのうち主な公演だけ列記すると以下の通りである。

・1971年5月 約一ヶ月の全国ツアー、滞在中に「恋人時代」などの日本語録音
・1972年5月
・1973年10月 クラシック・シャンソンやジャック・プレルの「行かないで」を熱唱
・1974年10月
・1977年2月
・1978年5月 前年秋のパリ公演でのダイナミックなダンスシーンを披露
・1983年3月
・1984年4月 ホテル・メリディアン東京でディナーショー、プランタン銀座にダンススタジオを開く
・1985年   コカ・コーラ・ライトのCMに出演
・1992年6月 二週間の全国ツアー
・1995年6月 横浜フランス映画祭に主演作を持ち団長として参加
・1999年6月 六本木スィート・ベイジルで毎夜2回全16回公演
・2005年3月 渋谷オーチャード・ホールで3回公演
・2008年3月 渋谷オーチャード・ホールで3回公演
・2010年11月 ANAインターコンチネンタルホテルで仏商工会議所GALA2010にて特別コンサート
・2013年2月 Billboerd Live東京/大阪毎夜2回全8回公演
・2014年4月 Billboerd Live大阪/東京毎夜2回全6回公演

★フレンチポップスとイェイェの女王

 ロックンロールが世界中の若者の間で興隆し、それまでシャンソン一辺倒だったフランスでも新しい流れが生まれようとした時期にシルヴィが登場した。

 フランス語は日本語と同様にロックに乗りにくい言語であるため、ロックを取り入れたフランス独特の音楽文化として、他に例を見ないフレンチ・ポップス(イェイェ)が誕生した。

 そしてこのローカルなサウンドを世界的に認めさせたのがシルヴィで「イェイェの女王」と呼ばれた。

 またこの「イェイェ」とは当時のティーンエイジャーのファッション・風俗そのものを指す言葉でもあった。

 なおこのイェイェの語源はレイ・チャールズの「ホワッド・アイ・セイ」をシルヴィは2枚目の録音としてフランス語でカバーしたが、この曲間に入る合いの手「イェー、イェー」と言われる。そしてこの新しい音楽文化はあの5月革命まで隆盛を極めた。

★レナウンのワンサカ娘CM(1965年)

 1965年の初来日の際に制作されたレナウンのTVCMはCMソングとして異例の大ヒットとなった。作詞作曲共に小林亜星。

 このCMソングは1961年に「かまやつひろし」が歌い、その後「デューク・エイセス」、「ジェリー藤尾&渡辺とも子」、そして「弘田三枝子」と歌い継がれて彼女に受け継がれ65~66年を担当した。これが爆発的なヒットとなりブームを引き起こした。

レナウン CM 1965年 シルヴィ・バルタン Sylvie Vartan 「ワンサカ娘」篇

★「ウルトラマンのバルタン星人」由来諸説

 ウルトラマンのバルタン星人の「バルタン」の由来はシルヴィ・バルタンである・・・という風説がかなり広く広がり信じられている。

 これは一応飯島監督の書いた文章で否定されて「バルカン半島」が由来となっている。

 しかし話題作りの視点から当時のスタッフがこれを肯定しているという説もあり、真実は闇の中である。

 なお2013年2月来日ライブの中でコラボしたことは周知である。

 この議論を正面から取り上げているので参考になる。

<歌詞>

Ce soir, je serai la plus belle
Pour aller danser
Danser
Pour mieux évincer toutes celles
Que tu as aimées
Aimées
Ce soir je serai la plus tendre
Quand tu me diras
Diras
Tous les mots que je veux entendre
Murmurer par toi
Par toi

Je fonde l’espoir que la robe que j’ai voulue
Et que j’ai cousue
Point par point
Sera chiffonnée
Et les cheveux que j’ai coiffés
Décoiffés
Par tes mains
Quand la nuit refermait ses ailes
J’ai souvent rêvé
Rêvé
Que dans la soie et la dentelle
Un soir je serai la plus belle
La plus belle pour aller danser

Tu peux me donner le souffle qui manque à ma vie
Dans un premier cri
De bonheur
Si tu veux ce soir cueillir le printemps de mes jours
Et l’amour en mon cœur
Pour connaître la joie nouvelle
Du premier baiser
Je sais
Qu’au seuil des amours éternelles
Il faut que je sois la plus belle
La plus belle pour aller danser

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