はじめに
この曲を知らない人でも「ノッテケ、ノッテケ」の曲だと言えばきっと「あー!」と声を上げるはず。
しかしオリジナルのアストロノウツ(The Astronauts)はエレキブームの魁となったインストゥルメンタルで歌はついていない。
だが今でも聞けば自然に「ノッテケ、ノッテケ」が口に出てくるほどピッタリはまっていた。
原題は「Movin’」、邦題は「太陽の彼方に」
ベンチャーズが日本でブレイクするのが65年だからまさにこの曲がエレキブームを起こしたといえる。
エレキ・ブームの前兆は東京オリンピック開催を目前に控えて、日本中が躁状態になっていた1964年の夏に、「太陽の彼方に」がヒットしたことから始まるサーフィンブームにあった。
イギリスのビートルズがアメリカでヒット・チャートの1位から5位までを独占して人気が爆発したその時、日本ではなぜかアメリカでも無名だったアストロノウツの曲が大ヒットしていたのである。
この曲を作ったのは1967年にナンシー・シナトラの「サマー・ワイン」で、作曲とプロデュースを手がけてデュエットするリー・ヘイズルウッドだった。
「サマー・ワイン」もまたアメリカよりも日本の方が受けたから、メロディー・メーカーとしてのリーが日本人の感性と相性が良かったということかもしれない。
なぜか日本でブレイクしたアストロノウツ(The Astronauts)
「サーフ・パーティー」を67位に、
「ホットロッド・パーティー」を92位に
送り込んだアストロノウツは、サーフィンとはまったく縁のない高地にある日本のマラソンランナーの高地トレーニングで有名なコロラド州ボルダーに住む学生たちによって結成された。
ロックンロールバンドとしてスタートしたアストロノウツは、おりからのサーフィン・ブームにあわせて、1963年に「サーフィンNo.1(BAJA)」でデビュー、かろうじて全米チャートの94位に顔を出したが、その後はまったくヒットに恵まれなかった。
ところが日本ではレコード会社のディレクターによって、アルバムの中から「Movin’」という曲が発見される。それが「太陽の彼方に」というタイトルでシングル発売になると、予想をはるかに超えて大ヒットしたのだ。
アルバム「Surfin’ with The Astronauts」にソングライターのリー・ヘイゼルウッドが提供した中の一曲がこれで日本でシングルカットされ、それが日本だけでの大ヒットとなった。
アルバム「Surfin’ with The Astronauts」ジャケット
日本発売シングル盤ジャケット
日本ではこれに非常にわかりやすい「ノッテケ、ノッテケ」の歌詞をつけてこれがエレキ少年達に受けた。
本国アメリカでの発表が63年で日本では64年に発売されている。
これに日本語の歌詞をつけてカバーが発売された。さっそく複数の日本語カバーが作られて、サーフィン・ブームに弾みをつけることになる。
のってけのってけ のってけサーフィン
夏の夏の 真夏のリズムさ
波に波に 波に乗れ乗れ 太陽の彼方
寺内タケシのものとゴールデン・ハーフのものは記憶があるのだがブルージーンズをバックに藤本好一が歌うバージョンは全く思い出せない。
ゴールデン・ハーフは72年だからリバイバルヒットと言える。また邦題も「太陽の彼方」と「に」が抜けている。
アストロノウツの動画(+ベンチャーズ)
The Astronauts ステレオ
モノラル
The Ventures
日本のエレキブームに火をつけたアストロノウツ
日本におけるエレキ・ブームの火付け役と言われている「太陽の彼方に」。
時は1964年、太平洋の向こうアメリカはビートルズ上陸で上を下への大騒ぎだったが、日本ではアストロノウツの「太陽の彼方に」が大ヒット。
それに追い打ちをかけるように藤本好一がこの曲に “のってけ のってけ のってけ サーフィン、波に 波に 波に 乗れ乗れ~♪” という摩訶不思議な歌詞を付けてカヴァーした。
この “のってけ~♪” フレーズが日本中で大流行、ここにベンチャーズの「ウォーク・ドント・ラン」(←邦題が“急がば廻れ” って…???)や
「パイプライン」が怒涛のように押し寄せ一気に日本のエレキ・ブームは沸点に達した。
当時の音楽雑誌に載ったアストロノウツの広告ページを見てみると、そこには “全世界で爆発的大流行、’64の新リズム…サーフィン!!!” という文字がデカデカと踊っている。
いつから “サーフィン” がリズムの名称になったのかは知らないが(笑)、まぁ何もかもが大らかで平和な時代だったということだろう。
この曲、よくよく聴けば同じフレーズを転調して繰り返しているに過ぎず、起承転結もエンディングに向けての怒涛の盛り上がりもない、非常に単調な構成なのだ。
まぁだからこそ先の “のってけ のってけ~♪” という単純な歌詞と結びつき、東京オリンピックで浮かれていた一般大衆の頭の中で脳内ループ現象を起こしたのかもしれない。
アストロノウツとベンチャーズの合同公演
シアトルのローカルバンドだったベンチャーズは1960年、「急がば廻れ(Walk Don’t Run)」でビルボード誌のヒットチャートで第2位を記録するヒットを放っている。
1962年にも初来日していたが、来たのはドン・ウィルソンとボブ・ボーグルの2人だけだった。
当時はまだギター二人のデュオだったのだ。
しかし東芝レコードのイベントに参加したものの、日本で起用されたベースとドラムスが力量不足でまともに演奏できず、バンドの魅力を伝え切れなかった。
日本で人気が出始めたのはアストロノウツの「太陽の彼方に」がヒットした後で、エレキギターのサウンドを前面に出したバンドということから、「急がば廻れ」や「パイプライン」に注目が集まったからだ。
アメリカでの実績は断然上だったので、東芝レコードも力を入れて1965年1月5日に勝負曲、「ダイヤモンド・ヘッド/朝日のあたる家」の発売を準備した。
日本でエレキブームが爆発したのは1965年1月3日から行われた、アストロノウツとベンチャーズの来日合同公演だった。
最終日となった1月10日の東京厚生年金会館2回公演は超満員になり、ベンチャーズはモズライトのギターによるダイナミックなサウンドで大変な評判を呼んだ。
こうして「ダイヤモンド・ヘッド」も大ヒット、一気にベンチャーズはブレイクして脚光を浴びた。
この日のライブはレコーディングされて「ベンチャーズ・イン・ジャパン」というアルバムになり、ビートルズをはるかに凌ぐセールスを記録した。そこで共演した寺内タケシとブルージーンズの活躍もあって、1965年は日本中にエレキ・ブームの熱気と勢いが広がっていく年になった。
アルバム「ベンチャーズ・イン・ジャパン」ジャケット
コメント