レイ・チャールズ(Ray Charles)|音楽人生のあゆみ

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レイ・チャールズ(Ray Charles)の生い立ち

ジョージア州で生まれ、フロリダ州で育った

 レィ・チャールズ・ロビンスンは1930年、ジョージア州アルバニーで生れた。フロリダ州のグリーンヴィルで成長する。

 幼い頃、母が洗濯の請負仕事に使っていた洗い桶の中で弟が溺れ死ぬのを目の前で見たチャールズは心に大きな傷を負うが、彼自身も6歳になる頃から緑内障のため視力を失い始める

盲学校で点字を使った楽譜の読み書きを学ぶ

 7歳の時、両親は彼をセント・オーガスティン盲学校に入れる。チャールズはそこで点字を使って楽譜の読み書きを学び、ビック・バンド用の曲を書き、ピアノ、アルトサックス、オルガン、クラリネット、トランペットといった楽器の演奏を学んだ。

 音楽に関して彼が最初に影響を受けたのは、ショパン、シベリウス、アート・テイタム、アーティ・ショウ、そしてグリーンヴィルのバー『レット・ウイング・カフェ』の経営者だったウイリー・ピットマンである。ピットマンが幼いチャールズにピアノの道へ進むことを勧めたのだという。

 彼がミュージシャンで本格的に飯を食っていこうと決意したのが、終戦の年(1945年)に母親を亡くした直後だから、セミ・プロとしての演奏活動は戦前からやっていることになる。

15歳母親の死亡でプロを決意

 15歳の時に母に死なれ、天涯孤独の身になったチャールズは、学校を中退してジャクソンヴィルに移り、本格的にプロのミュージシャンとしての道を歩み始める

 家族もなく、友人もいない。そして美しい夕焼け、様々な色、母の面影など、目に見える世界と結びつける映像の記憶も日を追うごとに薄れていく・・チャールズの子供時代は、想像を絶するほど孤独なものだったに違いない。

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音楽家としての成長

ビッグバンドのメンバーとしてスタート

 彼にとっての真実は音楽だけだった。学校を辞め、一人で歩き出したチャールズが初めて参加したのはカウント・ベーシー楽団のようなビックバンドで、その後ルイ・ジョーダン・スタイルの小編成のグループに入り、ヨーデルも覚えた。

 チャールズはその頃からすでに、あらゆるサウンドに対してオープンな姿勢を持っていた。クラッシックもジャズもビートの激しいものロマンティックなものも、全ての音楽を差別することを拒んだのである。

17歳でシアトルに移動

 17歳になったチャールズは、全財産の600ドルを持って、西の果て・・ワシントン州シアトルに辿りつく。 当時、シアトルの音楽シーンで天才少年として名を馳せていた15歳のクイシーン・ジョーンズは、越してきたばかりチャールズに会っている。ジョーンズが入っていたジュニア・オーケストラに、チャールズが時折、曲のアレンジをしていたからだ。 ジョーンズはこう言う

『レィは、まるで40歳の大人みたいな感じだったよ。女性の扱い方から人生にいたるまで、とにかく何でも知っていたからね。誰にも頼らない、完全に独立した男だったな』

 彼の名前が『レィ・チャールズ』になったのも、このシアトル時代のことである。理由は、偉大なる世界ミドル世界チャンピオン、シュガー・レィ・ロビンスンと間違われないためだった。

初のレコーディング

 1948年、チャールズは初のレコーディング作品『コンフェッション・ブルース』をジャック・ローダーデイルのダウンビート・レーベルからリリースする。

 この後の4年間で、チャールズはローダーデイルのレーベルから40曲以上を発表している。まずまずのR&Bヒットにはなったが、若さに似合わぬ上品な雰囲気と、どれもナット・キング・コールやチャールズ・ブラウンの作品とほとんど区別がつかないようなものばかりだった。

 当時の彼はポピュラー・テイストが色濃く感じられる。さまざまなサウンドに対するチャールズの飽く事のない貪欲さが、彼の作品にも表れている。

1952年アトランティック・レコードと契約

 1952年にアトランティック・レコードと2500ドルで契約したとき、チャールズはすでに様々なスタイルをこなす柔軟さを備えていた。

 スイング・タイムレコードからアトランティックへ移籍し、“I’ve Got A Woman”を発表した1954年には、レイ・チャールズという一人のミュージシャンの中で、Jazz、Swing、Jump(Jive)、C&W、Blues、Gospel・・という様々なルーツが混合し終え、“Ray Charles”という1POPジャンルをすっかり完成させていた。

 それが、たまたま後に“R&B”と呼ばれる事になる音楽のキッカケになった。

 しかし当時の彼は、本人に言わせれば、まだ『レィ・チャールズ』ではなかったし、自分のキャリアについて特別大きな感概を抱いたこともなかったという。

 すでに、フルスンと共にアポロ・シアターでショーを開き、R&Bチャートのトップ・テンに入るようなヒットを何曲か飛ばし、アトランティックスという将来性豊かなレーベルと、ついに契約を結んだにも関わらずに。

 常にクールな彼の興奮ということに関していえば、演奏以外であるとするならば、それはクラブ・アラバマでアート・テイト・テイタムに初めて会った時のことだ。

『ある晩、たまたまアート・テイタムがやって来た。俺もその場にいたから、誰かに紹介をしてもらったんだ。店内が急に静まりかえったから、大物が現れたとすぐ分かったよ。凄かったな。『なんだ?』と感じて、みんなが振り向く。  それで初めて気づくんだ。今はもう、こういうのはない、誰がいようがお構いないなしだからな。アート・テイタムに紹介されたときは、すっかり恐縮してね、何もいえなかったよ。そうだろう、神様に何を言ったらいいんだよ』・・・・・

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レイ・チャールズ(Ray Charles)とアトランティック

新たな時代を生み出した創業コンビのアトランティック・レコード

 レイ・チャールズ(Ray Charles)とアトランティック・レコードは歴史上、これからも両者は結び付けられるだろう。新たな時代を作ったもの同士として、レイ・チャールズはソウル・ミュ-ジックの様式を作った先駆者であり、アトランティックはソウルという小さな世界を牛耳る巨人だった。

 アトランティックは1947年に創業、アーメット・アーティガンとハーブ・アブラムソンの二人によって始められた。

 アトランティックも他のインデペンデント・レコードと同じように、元々はオーナーたちの音楽に対する熱狂的な情熱から発生したものだった。

 しかし他の同時代のレーベルとは違い、アトランティックは想像力溢れる積極的な起業精神、ビジネスに対する鋭い洞察力、文化的洗練、センスの良さといったものをうまく融合させることで成長していく。

 他のレベールのように、その時々のヒットや流行を追いかけたり、大量の『商品』を無差別的に市場に送り込み、どれか一つくらいはうまく引っかかるだろうと待っているのではなかった。

 共同経営者の共通して傾向していたジャズに関する知識と、ハーブ・アブラムソンが持ち込んだゴスペルとR&B界での経験。そしてこの業界において最も機知に富み、実に狡猾な男の一人であるアーメット・アーディガンの説得力とその抗う事の出来ない人間的魅力だった。

 1953年、ハーブ・アブラムソンは兵役のため陸軍に入隊、その後彼に復帰の夢はかなわず、数年後には自分の持ち株をすべて売却することになった。一方、この間に新たに登場したのがジェリー・ウエクスラーという人物である。

1953年ウエクスラー入社後2年で30曲をR&Bチャートのトップテン内に

 ウエクスラーという人物はアーティガンよりも飾り気がなく、はっきりと物を言う男だが、抜け目がないという点では、彼に負けず劣らなかった。1953年、35歳の時にウエクスラーは副社長としてアトランティック・レコードに迎え入れられる。

 地元ニューヨーク出身で、ライターとプロモーションマンの経験を持つウエクスラーは、自らの才能を証明することに貪欲だった。ウエクスラーが入社する1953年から、その2年後アブラムソンが除隊するまでの間に、アトランティックは実に30もの曲をR&Bチャートのトップテン内に送り込んでいる。これは小レーベルとしては信じられないほど大きな成功で、これで彼らは競合他社との争いにおいて完全に抜きん出た存在となった。

アーティストの発掘に注力

 創業以来、アトランティック・レコードは質の高い本物の作品製作にこだわり続け、業界内に潜む才能溢れるアーティストの発掘にも手を抜く事はしなかった。

 そんな中、レイ・チャールズ(Ray Charles)は様々な点においてアトランティックが長い間探し求めていたアーティスト像の見本のような存在だった。アトランティックがなんとか一つにまとめ上げようしてきた様々な要素が、彼の中ではすでにひとつの形になっていた。

 音楽の楽譜が読めるR&Bアーティストで、音楽に対する幅広い洗練された趣味を持つ一方、そのサウンドからは間違いなくダウンホームな香りがする。

 そんな22歳の青年チャールズは周囲の意見にもオープンだったが、この時彼の今後の展開を予測できた人間がいたとはとても信じられない。

1954年レイ・チャールズ(Ray Charles)が自分の専属バンドを持つ

 1954年の初め、チャールズはついに専属バンドを持つ事にした。『ビリー・ショウがおれのステージをブッキングしていたんだが、彼はおれが自分のバンドをもって活動することに反対だった。『あんた一人だけじゃ、まだ弱いよ』ってね。彼の言う通りだったんだが、おれにはそうするしかなかった。

 レイ・チャールズ(Ray Charles)が選んだ道は、自らのバンドでレコードを作ることだった。11月、チャールズはアーティガンとウエクスラーをアトランタに呼び寄せ、彼のバンドを初めて披露する。

 ウエクスラーが当時を振り返ってこう言う。

『ホテルでレイと会って、それから、向かいに側にあったロイヤル・ピーコックというクラブに案内された、まだ昼下がりでね、中に入ると、彼のバンドがいた。いつでも演奏が始められるような感じで椅子に座っていたんだ。レイはピアノに向かうと、カウントを始めた。で・・聞こえてきたのが『アイヴ・ガット・ア・ウーマン』さ。それで決まりだったね』・・・

ABCレコードへの移籍

画期的な好条件をレイ・チャールズ(Ray Charles)に提示したABC

 ABCレコードは、黒人音楽市場が急速成長を遂げつつあることには感ずいていたが、有力なR&Bアーティストがいなかった。チャールズ曰く、ABCは絶対に断れるはずのない好条件を彼に示した。

 彼らはアトランテッィクよりも遥かに高い印税率だけでなく、プロダクション契約やプロフィット・シェアリング(利益分配制度)をチャールズに約束し、マスター・テープの最終的所有権も彼に約束した。

 これほど好条件の契約はほぼ前例のないもので、今日でさえ非常に稀である。この後、チャールズはついに自らのレコード会社を手に入れる。タンジェリンと名づけられたこのレーベルの作品は、ABCを通じて配給された。

 こうしてレイ・チャールズ(Ray Charles)は結果的に、サム・クックがRCAから勝ち取ったのとほぼ同じものを事実上手に入れることになった。

 つまり、音楽製作面だけでなく財政面でもある程度の主体性を確保し、会社をひとつ買えるほど経済的に豊かになったわけである。

 しかしレイ・チャールズ(Ray Charles)はこう言う

『始めからそんな筋書きを考えていたわけじゃない。それぐらい頭が切れたと言えたらいいんだが、俺はそんな下らない嘘を言うつもりはない。いろいろ聞いていると思うが、おれはただ、自分のマスター・テープを欲しかっただけなんだ。マスターが一生自分のものになるっていうのは、そうだな、自分の出版会社をもてるようなものだ、と思ったのさ。
考えてもみろよ。こんな美味しい話を断れるわけがないだろう。多分、ABCの連中は・・・まあ、おれが欲しかったのは間違いないが・・・とにかく、アトランティク時代の俺を見て、かなり過大評価したんだと思うね。
まあ、そんなことはどうでもいい。ABCの判断が正しかったかどうかよりも、大事なのは自分は何かを持っていると誰かに思わせることだ・・・実際、そんなものはないかもしれない。だが、そいつがそう思っている以上、あんたはそれを持っている。それがすべてなんだよ。』

深刻なダメージを受けたアトランティック

 そして一方では、その後レイ・チャールズ(Ray Charles)に去られたことで、アトランテッィクは深刻なダメージを受けたのであった。当時のアトランティックは黒人音楽をもっとも深く理解し、レイ・チャールズ(Ray Charles)の才能をいち早く見出し丁寧にケアーして来た。

 しかしレイ・チャールズは、すでにアトランテッィクが考えていた様なR&B世界の枠を超えようとしていた。本人もはっきりと意識していなかったかもしれないが、レイが求めていたのは自分の音楽活動を自分でコントロールすることだったのだろう・・

ビートルズの中のレイ・チャールズ(Ray Charles)

 ビートルズは、レイ・チャールズ(Ray Charles)のナンバーを、まだクォーリー・メンと名乗っていた時代から、よくカヴァーしていたようだ。彼らの初期の音源では、レイの「ホワッド・アイ・セイ」や「ハレルヤ・アイ・ラヴ・ハー・ソー」のカヴァーを聴くことができる。

・ハレルヤ・アイ・ラヴ・ハー・ソー(クォーリー・メン時代の音源)

 彼らにとって、レイ・チャールズ(Ray Charles)は、アメリカのロックンロールを代表する現役のアイドルの一人だった。そのレイにビートルズの面々がはじめて会ったのは、1962年の暮れだ。

 ハンブルクのスター・クラブにレギュラー出演していたビートルズは、ある晩レイ・チャールズの前座を務めることになった。ライヴの後、ビートルズはレイ・チャールズと楽屋で歓談する機会に恵まれたらしい。

 レイ・チャールズが与えた影響は、ビートルズの音楽が変遷し直球のロックンロールではなくなった後期にも、姿を変えて残っている。例えば、『アビー・ロード』に収録されたサムシングも、その一例だ。

 一般にこの曲は、作曲者のジョージ・ハリスンが妻のパティ・ボイドに捧げた歌と解釈されることが多かった。しかし生前のハリスンは、これはレイ・チャールズが歌うところを想像しながら作った曲で、特にパティを意識したわけではない、と語っている。

 「サムシング」は、シンガーソングライター的な活動に目覚めたハリスンが、敬愛するソウルの大御所を意識して、真摯に書き上げたスイート・ソウルと言っていいだろう。

 曲を仕上げた後、この曲がまずジョー・コッカーに提供されたというのも、レイ・チャールズとの繋がりを感じさせるエピソードだ。ジョー・コッカーはレイ・チャールズ譲りの黒いこぶしで頭角を現わしたシンガーで、フランスでは「プチ・レイ・チャールズ」という愛称も得ていたほどだ。

 コッカーの友人だったハリスンは、本格的なソロデビューを控えた彼に「サムシング」を託したが、それからしばらくコッカーのデビュー作は完成せず(69年11月発表)、結局ビートルズのヴァージョンが先に世に出ることになった(69年9月)。

 また、ポール・マッカートニーの場合は、「ロング・アンド・ワインディング・ロード」が、レイ・チャールズを念頭に書いた曲だった事実を明らかにしている。

「僕の声は彼と似ていないから、まるでレイ・チャールズみたいには聞こえないけどね。でも心の中で、レイ・チャールズならどうするだろう?なんて考えをめぐらせながら書いたんだ。だからもしかしたら、少しジャズっぽいコード進行あたりは、その影響が表われたのかもしれないね。」

 ビートルズのような大物が、曲の元ネタを具体的に明かすのは、決してよくある出来事ではない。ミュージシャンが自分の受けた影響をつい語りたくなってしまう、それほどレイ・チャールズは別格の存在だということかもしれない。

レイ・チャールズ(Ray Charles)代表曲

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