ビル・ヘイリーのデビューからその後
1925年7月6日ミシガン州ハイランドパーク生まれ。17歳の頃からヨーデル歌手として活動を始めた。
しかし音楽だけで生計を立てるまではいかず、地元ペンシルヴァニア州チェスターの小さなラジオ局でDJ兼管理人兼掃除人といった職に就いた。
1946年に「フォー・エイセズ・オブ・ウェスタン・スウィング(The Four Aces of Swing)」というカントリー系のバンドで活動を始めるが1年で解散。
1948年には自らのバンド「サドルメン」を結成。
DJをしていたビル・ヘイリーは50年代になるとリスナーのリクエストから時代の変わり目に気づく。
どうもリスナーが求めているのはリズム・アンド・ブルースと呼ばれていた黒人音楽らしいと気づいたビルはDJとしてそういったレコードをかけるだけでなく、自分のバンドでもやってみようと賢明な判断をした。
ヘイリーのR&B風録音第1号は黒人バリトンサックス奏者兼歌手ジャッキー・ブレンストンの「ロケット88」を、当時まだ物珍しい電気ギターをフィーチャーしたカバーであった。これが1万枚も売れた。
1951年から53年ころまでの活動
ビル・ヘイリーとサドルメンは、フィラデルフィアをベースにしたデイブ・ミラーのホリデイ・レーベルとエセックス・レーベルからレコードを発売し、名声を得ていた。
ヘイリーはハンク・ウィリアムス風のカントリー・バラードとボブ・ウィルス風のテキサス・スウィングが好きだったが、ミラーは「ロケット88」(10000枚)や「ロック・ザ・ジョイント(Rock The Joint)」(1952年75000枚)のようなR&Bをやるように勧めた。
どうすれば客に受けるか徹底的に研究しながら、ヒルビリー、ウェスタン・スイング、リズム&ブルース、ディキシーランド・ジャズなどをミックスしていき、全く独自の音楽を作り上げていった。
そのうち1952年の「ロック・ザ・ジョイント」がとうとう全米チャートに顔を出すところまでいった。ヘイリーはアップテンポでブルース風の音楽が有望であると悟った。
当時は人種差別が当たり前だった時代で音楽産業も「カントリー」と「R&B」とシロクロがはっきり分かれていた。ところがヘイリーのレコードは聴いただけではシロなのかクロなのかわからないというものだった。
1953年サドルメンがフィラデルフィアのクラブの専属バンドになると、カウボーイハットとブーツを脱いでタキシードを着るようになった。
このスタイルに合わせるために、バンドの名前も変えなきゃいけないと、地元のDJの推薦を受け入れ、ビル・ヘイリーとヘイリーズ・コメッツという名前でエセックス・レコードからシングルを発売した。
その後デッカからレコードを発売する際、ビル・ヘイリーと彼のコメッツへと名前を変えた。
発売前からクラブで「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を歌う
1953年の「クレイジーマン・クレイジー(Crazy Man Crazy)」が突発的なヒット(15位)となったので、地元のクラブは少年たちでスシ詰めとなり、既にヒットメーカーだったマックス・フリードマンがヘイリーにアプローチしてきた。
しかしまだこの段階では「白人専用のダンス・バンド」という不本意な評判だった。
そしてフリードマンがジミー・マイヤーズと共作した「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は1953年夏にバンドのレパートリーに加わり人気の曲となっていた。
この頃の彼らの演奏は上の写真のように、ウッド・ベースをグルグル回したり、その上に馬に見立てて乗っかったり、その後ロカビリーバンドでは普通となったパフォーマンスを先取りして観客を楽しませる工夫をしていた。
最大手デッカとの契約し大ブレイクへ
エセックス・レコード社長とこの曲の作者が不仲であるために、録音させてもらえなかったことは別項で述べた。
そこでデイブ・マイヤーズはヘイリーをニューヨークに連れて行き、ちっぽけなフィラデルフィアのエセックスレコードをやめさせ、最大手のデッカと契約させようとした。
運のいいことにヘイリーと面談したのが大物プロデューサーのミルト・ゲイブラー。早速契約となった。当時ド田舎で得体の知れないヒルビリー野郎といきなり契約する大手なんて無かったので、世間は度肝を抜かれたという。
こうして「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を含む3曲が1954年にレコーディングされた。
大ブレイク当時のビル・ヘイリー
1955年の映画「暴力教室」で「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が大ヒットした時、ビル・ヘイリーはもう既に30歳。妻も子供もいた。
ティーン・エージャーの反抗という社会現象まで引き起こしたが、かれはもう若者の代表という年ではなく、変な髪型の「おっさん」と呼ぶ方が相応しい風貌であった。
この髪型は「スピット・カール」といって当時流行っていたらしい。横山ノックはこれを真似したのかはわからない。
本人が映画に出演しなかったことがかえって救いとなり、現在と違ってラジオ時代であったためにブームに乗ることが出来たともいえる。
1954年4月12日Deccaレコードよりリリースされた日、ほぼ同時にデビューしたエルヴィスは18才、ヘイリーは29歳、残念ながらアイドルになる要素は無かった。
1956年頃まではヒット曲も出して活躍したが、プレスリー等、より若く強力なスターの登場により、その後は人気の未だ続いていたヨーロッパでの海外ツアーでしか活動できなくなっていった。
1957年、ブームが去った米国よりもまだ人気が高かったイギリスでツアーを始めた。
アメリカのロッカーがイギリスに渡ったのは彼が初めてだったという。
成功をバンドの仲間と分かち合わなかったヘイリー
ヘイリーは自分の成功をバンドと分かち合わなかったので、月給をもらう従業員でしかないことにイライラしていたオリジナルのコメッツは次第に離れていった。サックスのジョーイ・ダンブロージオは次のように回想する。
「俺がこの曲でいくら稼いだか教えてやろうか。たった42ドル50セント。録音セッション1回分に対する組合の基準額さ。ゴールドレコードさえもらっていないんだ。100万枚売れる前にバンドを離れたからさ。」
ディック・リチャーズ(Dick Richards)はバンドの正式ドラマーだったが、録音時には別のドラマーと入れ替えられた。
「1955年9月ヘイリーに昇給を頼んだんだ。その週、彼はキャデラックの新車を買ったのに、拒絶したんだ。」
すぐに彼を含めたJoey、Marshallの3人はコメットを辞めて自分たちのグループを作った。
コメッツ物語
コメッツはビルヘイリーの雇われバンドだが、初期はそうではなかった。
1940年代後半前身のウェスタン・スウィング・バンド「サドルメン」の時代は、メンバー全員が専業ではなく有志の仲間が集まったグループであった。
それがメンバーの入れ替わりが激しいため、時間が経つにつれてビル・ヘイリーと他のメンバーの力関係は圧倒的な差がつき、雇用者と雇用人という関係になっていく。
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悲劇的晩年
大ヒットの翌年1956年になるとロック野郎が猫も杓子もと輩出してくる。
エルヴィス、カール・パーキンス、ロイ・オービソンetc.と数え切れないくらい続出してヒットを連発する。
ということで1957年には30代のおっさんでアイドルとは程遠いヘイリーの人気はもう終わっていた。
友達と思っていたペテン師に資産運用を任せていたら有り金全部持ち逃げされて、気が付いたら巨額の借金だけが残っていた。
世界中をドサ回りし始めるが、、ビートルズ旋風が吹き荒れると拠点をメキシコに移した。
ヘイリーは50年代の自分のヒット曲のスペイン語リメイク盤からツイスト演奏ものまで工夫を凝らしてメキシコの小さなレーベルを渡り歩いた。
その甲斐あってメキシコのヒットメーカーとなった。しかしコメッツのメンバーが次々に抜けて行き孤立していった。
そこで引退を目論んで片田舎のベラクルスにマンゴー農園を購入し、農園主を目指すがここでも失敗。
ヤケクソになったヘイリーの酒癖が悪くなりだし、いつの間にか深刻なアル中男になってしまった。
こんな時に遠くスウェーデンの熱狂的なファンがソネットという自分のレコード会社を興し、契約を持ちかけてきた。
さらに本国アメリカでも1970年代初期、MCAはデッカの作品を引き継ぎ、この曲も再発した。
ちょうどリチャード・ネイダー(Richard Nader)がマジソン・スクェア・ガーデンで開いたオールディーズ・ショーでビル・ヘイリーが見事にカムバックした頃だった。
テレビの懐古的コメディドラマ「ハッピーデイズ」でテーマ曲として使用されると、1974年に3度目のチャートインを果たし、39位まで上昇した。
これでヘイリーにとって新たな人生となると思われた矢先、ヘイリーの言動が支離滅裂になっていく。
既にアル中によって脳腫瘍に蝕まれていたのだ。妄想にとらわれ、理由もなく激怒した。
そして家族や友人とも離れ、テキサス州ハーリンガーに小さな家を買い、一人暮らしを始め、マスコミ取材を徹底拒否し完全な引退生活に入った。
地元の保安官はそんなヘイリーを心配し、最晩年の友人となったが、時々人里離れた山中で自分が誰なのかもわからずにたたずむヘイリーをよく見かけるようになったという。
1981年のある日様子がおかしいことに気づいた保安官がヘイリーの自宅を訪れ、ベッドで冷たくなっているヘイリーを発見した。検死結果は心臓発作による自然死。
1981年2月9日テキサス州ハーリンガーにて、享年55才。
ファーザー・オブ・ロックンロール
ヘイリーは最後のインタビューで「なんと表現されたら嬉しいですか?」と尋ねられ、このように答えたという。
『ファーザー・オブ・ロックンロールと呼ばれたい』
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