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(2/2ページ)ロック・アラウンド・ザ・クロック(Rock Around The Clock)~Bill Haley & His Comets

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大ブレイク当時のビル・ヘイリー


1955年の映画「暴力教室」で「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が大ヒットした時、ビル・ヘイリーはもう既に30歳。妻も子供もいた。

ティーン・エージャーの反抗という社会現象まで引き起こしたが、かれはもう若者の代表という年ではなく、変な髪型の「おっさん」と呼ぶ方が相応しい風貌であった。

この髪型は「スピット・カール」といって当時流行っていたらしい。横山ノックはこれを真似したのかはわからない。

本人が映画に出演しなかったことがかえって救いとなり、現在と違ってラジオ時代であったためにブームに乗ることが出来たともいえる。

1954年4月12日Deccaレコードよりリリースされた日、ほぼ同時にデビューしたエルヴィスは18才、ヘイリーは29歳、残念ながらアイドルになる要素は無かった。

1956年頃まではヒット曲も出して活躍したが、プレスリー等、より若く強力なスターの登場により、その後は人気の未だ続いていたヨーロッパでの海外ツアーでしか活動できなくなっていった。

1957年、ブームが去った米国よりもまだ人気が高かったイギリスでツアーを始めた。アメリカのロッカーがイギリスに渡ったのは彼が初めてだったという。

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成功をバンドの仲間と分かち合わなかったヘイリー

ヘイリーは自分の成功をバンドと分かち合わなかったので、月給をもらう従業員でしかないことにイライラしていたオリジナルのコメッツは次第に離れていった。サックスのジョーイ・ダンブロージオは次のように回想する。

「俺がこの曲でいくら稼いだか教えてやろうか。たった42ドル50セント。録音セッション1回分に対する組合の基準額さ。ゴールドレコードさえもらっていないんだ。100万枚売れる前にバンドを離れたからさ。」

ディック・リチャーズ(Dick Richards)はバンドの正式ドラマーだったが、録音時には別のドラマーと入れ替えられた。

「1955年9月ヘイリーに昇給を頼んだんだ。その週、彼はキャデラックの新車を買ったのに、拒絶したんだ。」

すぐに彼を含めたJoey、Marshallの3人はコメットを辞めて自分たちのグループを作った。

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人気凋落

大ヒットの翌年1956年になるとロック野郎が猫も杓子もと輩出してくる。エルヴィス、カール・パーキンス、ロイ・オービソンetc.と数え切れないくらい続出してヒットを連発する。

ということで1957年には30代のおっさんでアイドルとは程遠いヘイリーの人気はもう終わっていた。

友達と思っていたペテン師に資産運用を任せていたら有り金全部持ち逃げされて、気が付いたら巨額の借金だけが残っていた。世界中をドサ回りし始めるが、、ビートルズ旋風が吹き荒れると拠点をメキシコに移した。

ヘイリーは50年代の自分のヒット曲のスペイン語リメイク盤からツイスト演奏ものまで工夫を凝らしてメキシコの小さなレーベルを渡り歩いた。

その甲斐あってメキシコのヒットメーカーとなった。しかしコメッツのメンバーが次々に抜けて行き孤立していった。そこで引退を目論んで片田舎のベラクルスにマンゴー農園を購入し、農園主を目指すがここでも失敗。

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ヤケクソになったヘイリーの酒癖が悪くなりだし、いつの間にか深刻なアル中男になってしまった。

こんな時に遠くスウェーデンの熱狂的なファンがソネットという自分のレコード会社を興し、契約を持ちかけてきた。さらに本国アメリカでも1970年代初期、MCAはデッカの作品を引き継ぎ、この曲も再発した。

ちょうどリチャード・ネイダー(Richard Nader)がマジソン・スクェア・ガーデンで開いたオールディーズ・ショーでビル・ヘイリーが見事にカムバックした頃だった。テレビの懐古的コメディドラマ「ハッピーデイズ」でテーマ曲として使用されると、1974年に3度目のチャートインを果たし、39位まで上昇した。

これでヘイリーにとって新たな人生となると思われた矢先、ヘイリーの言動が支離滅裂になっていく。既にアル中によって脳腫瘍に蝕まれていたのだ。妄想にとらわれ、理由もなく激怒した。

そして家族や友人とも離れ、テキサス州ハーリンガーに小さな家を買い、一人暮らしを始め、マスコミ取材を徹底拒否し完全な引退生活に入った。

地元の保安官はそんなヘイリーを心配し、最晩年の友人となったが、時々人里離れた山中で自分が誰なのかもわからずにたたずむヘイリーをよく見かけるようになったという。

1981年のある日様子がおかしいことに気づいた保安官がヘイリーの自宅を訪れ、ベッドで冷たくなっているヘイリーを発見した。検死結果は心臓発作による自然死。

1981年2月9日テキサス州ハーリンガーにて、享年55才。

ファーザー・オブ・ロックンロール

ヘイリーは最後のインタビューで「なんと表現されたら嬉しいですか?」と尋ねられ、このように答えたという。

『ファーザー・オブ・ロックンロールと呼ばれたい』

コメッツ物語

コメッツはビルヘイリーの雇われバンドだが、初期はそうではなかった。1940年代後半前身のウェスタン・スウィング・バンド「サドルメン」の時代は、メンバー全員が専業ではなく有志の仲間が集まったグループであった。

それがメンバーの入れ替わりが激しいため、時間が経つにつれてビル・ヘイリーと他のメンバーの力関係は圧倒的な差がつき、雇用者と雇用人という関係になっていく。

このような推移を詳しく知りたい方にお勧めのサイトが下記。

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