映画「暴力教室」と共に社会現象となったロック
1955年この映画が公開されると映画館では若者たちが通路で踊りだしたり、騒動が起こるなど、それまでになかった「若者たちの反抗」が噴出。
監督・脚本はリチャード・ブルックス。主役の教師役はグレン・フォード、反抗的な生徒たちのリーダー役にシドニー・ポワチエ。
真面目な教師と不良学生たちが対立するという、後の学園ドラマの原点のような映画。
反抗する若者たちが暴動を起こすなどセンセーションを巻き起こした。
55年の映画「暴力教室」で使われた
映画「暴力教室」を中心にこの曲の解説をしている。
映画「アメリカン・グラフィティ」でも使われてリバイバル・ヒット
1974年、50年代の青春を描いたジョージ・ルーカスの映画「アメリカン・グラフィティ」のオープニングで、オリジナル・バージョンが効果的に使われた。
そのため再注目され、再び全米1位を獲得した。ロックン・ロールがリバイバルする度にこの曲は蘇る。
しかも誰かのカバーではなく、オリジナルが使われるのは驚きである。
日本への影響
1955年頃の時代背景
1954年の日本のヒーローはゴジラと力道山と笛吹童子だった。
はっきりと記憶がある。1955年石原慎太郎が「太陽の季節」を発表。
アメリカでは1954年にエルヴィス・プレスリー、フランスでは作家「フランソワーズ・サガン」がデビュー。
1955年には「エデンの東」と「理由なき反抗」でジェームス・ディーンが登場。
江利チエミとダーク・ダックスが異なる訳詞でカバー
1955年8月、映画「暴力教室」が日本でも公開され、その衝撃的な内容から文部省が要注意作品に指定するほどの話題作となり、11月には人気絶頂だった江利チエミとダーク・ダックスがそれぞれ異なる日本語詞をつけた主題歌「ロック・アラウンド・ザ・クロック」のカバー盤をリリースした。
当時の日本の洋楽シーンはジャズが主流で、ロックンロールがどんな音楽なのか、誰も知らなかった時代だけに、両盤ともオリジナルとは違ったニュアンスの代物だった。
とにかく両盤とも日本人がロックンロールを歌った最初のレコード(SP盤)となった。こうしてアメリカでロックが誕生した1955年には早くも日本に上陸を果たし、日本人歌手によるレコードがリリースされた記念すべき年になった。
大人のハワイアン・カントリーから若者のロックへ
それまでの昭和時代洋楽は戦前に流行ったジャズやハワイアン路線を引き継ぎ、大学キャンパスでは相変わらずハワイアン・バンドが幅を利かせていた。
同じくスティール・ギターが主要な役割を果たすカントリーも、あちこちの大学バンドで演奏されるようになっていった。
「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の大ヒットはこうした状況を打破してしまった。
それまでジャズやハワイアン、カントリーはどちらかというと大人の音楽に位置していた。
対してこの曲は明らかにこうしたものとは一線を画していた。
ティーンエイジャー向けの音楽が市場を賑わせることになり、日米ともに一致した動きであった。
当時の日本は78回転のSP盤から45回転のドーナツ盤への移行の時期にあたり、最初SP盤で発売された「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がドーナツ盤で再発された。
それでもヒットとはならなかったが、俄然流行りだしたのが映画「暴力教室」が日本で封切られてからと、これも米国の動きと一致する。
この曲の流行は、1年後にわが国でロカビリーがブーム化する伏線となった。
日本語カバー盤の存在がヒットの条件だった時代
当時の日本で洋楽をヒットさせるには、日本語カバー盤がどうしても必要であった。
まだ英語で歌われる音楽は一部インテリのみのもので、一般に普及させるのは困難であった。
こうした背景から日本語で歌われるカバー曲が広まっていった。
時代はまさに美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみの3人娘の時代であった。
江利チエミはそれまでアメリカ音楽の楽しさを戦後昭和に植え付けた張本人であった。
例えばペイジの「テネシー・ワルツ」、ハンク・ウィリアムスの「ジャンバラヤ」、エヴァリー・ブラザースの「バイ・バイ・ラブ」などのカバー作品がそれを物語っている。
その彼女がこの曲でもカバー盤を出している。訳詞は音羽たかし
ロック・アラウンド・ザ・クロック 江利チエミ
かなり時間経過し、オールディーズとなった頃のカバー
ブルー・コメッツ
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