ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)|ヒストリー

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ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)の誕生から現在まで

 62年にデビュー以来英国で順調に活動を続けて、ビートルズの優等生に対する不良という位置づけで受け入れられていた。

 64年にビートルズが米国で大ブレイクし、ブリティッシュロックグループが続々米国上陸を成功させる中で、ローリング・ストーンズは順調ではなかった。

 米国でのヒットがないままデビュー直後に全米ツアーを敢行したものの、殆どの会場はガラガラだったという。

 その後も地道な活動を続けるうちに65年「サティスファクション」の大ヒット曲が生まれ、多くのロックバンドがカバーするロックの定番曲となった。

 そしてその後も第一線のバンドとして君臨し、今では活動歴50年を超える怪物バンドである。

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メンバー編成


Mick Jagger ミック・ジャガー/ボーカル
Keith Richards キース・リチャーズ/ギター、ボーカル
Brian Jones ブライアン・ジョーンズ/ギター、パーカッション etc.
Bill Wyman ビル・ワイマン/ベースギター
Charlie Watts チャーリー・ワッツ/ドラムス

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 ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)誕生

ミックに説得されオリジナルメンバーが集まった

 ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)の中心はやっぱりミック! オリジナル・メンバーはすべてミックに説得され加入している。

 ストーンズの前身は「リトル・ボーイ.ブルー・アンド・ザ・ブルー・ボーイズ」で、そこに所属していたミックがメンバーを引き込んだ。

 今のストーンズはミックがリーダーだが、初期のリーダーはブライアンで、バンド名をローリング・ストーンズに決めたのもブライアンだった。

 ストーンズはマーキー・クラブをはじめ、ロンドン周辺のクラブで演奏するようになる。

デッカからレコードデビュー

 その後デッカと契約し、チャック・ベリーの「カモン」のカヴァーでレコードデビュー。ストーンズ自身はあまり気に入っていないがUKチャートで21位まで上がっている。

 初期のストーンズのスタイルは、ビートルズのように、オリジナル曲にカヴァーが少し混ざるのとは全く逆で、ブルースやR&Bのカヴァーにオリジナル曲が少し混ざるスタイルだった。

 その後、英国3枚目のシングル「ノット・フェイド・アウェイ」3位の大ヒット! ここでストーンズの名前を世界に知らしめることとなる。

 続くファーストアルバム「ザ・ローリング・ストーンズ」もビートルズの「ウィズ・ザ・ビートルズ」をチャートから蹴落として   12週連続1位の大ヒット

英国での好調と対照的に米国上陸には苦しむ

 が、イギリスでの好調さに対し、アメリカへの進出はなかなか難しかったようだ。初のアメリカツアーは観客が入らず大失敗。

 しかし翌年、「満足できない」という若者の気持ちをわしづかみにした「サティスファクション」をリリースすると、英米両国で1位の大ヒットを記録。見事アメリカ進出をも果たすのだった(最近ローリングストーン誌の最も偉大な500曲でもこの曲は2位を獲得)。

 続くシングル「独ぼっちの世界」英米1位の大ヒット

 アルバムセールスも好調でヒットを量産し、とうとうストーンズはビートルズに続くビッグバンドとなる。

リーダー、ブライアンの死がバンドの転機となる

好事魔多しの危機到来

 しかし67年、ストーンズの評価は下がる。

 警察がキース邸を調査、ドラッグらしき物を押収したと発表したのだ。さらにミックとキースが麻薬不法所持で逮捕された

 またビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を真似して作ったアルバム「サタニック・マジェスティーズ」が大大大失敗

 これはコンセプト・アルバムで、いい曲も含まれているが、どれも実験的なもので、ストーンズらしくない曲が多かったから。こうしてストーンズには後がなくなってしまう。

ついに自分たちの路線を見出す

 だがその翌年、ストーンズは大傑作アルバム「ベガーズ・バンケット」をリリース。このアルバムは、ほとんどの曲がアコースティック中心で作られていて、前作とは正反対のアルバム。

 同時期に、ビートルズは「ホワイト・アルバム」をリリースしているが、ビートルズが音楽的変化を求めたのに対し、ストーンズは念願だったブルースを基調とした作風で、とうとう大衆にブルースを定着させた。

 そしてなによりも方向的には違っていても、真似ばかりしていたビートルズとは違う、自分たちの方向性を見いだした

 このアルバムには音楽的リーダーだったブライアンがドラッグから抜けられなくなり、ほとんど参加してない。もし参加しても、とても演奏できる状態じゃなかった。

 それでも大傑作アルバムを作り上げたのだからストーンズにブライアンは不要になってしまった。

ブライアンの脱退と変死

 ついには、ブライアンは自分が育て上げたバンド、ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)から解雇されてしまう。ブライアンは本当にこのバンドに貢献してくれた。

 シタールやマリンバなど本当に多くの楽器を演奏してきた。これはあまりにもかわいそうな事実だった。

 そして69年7月事件は起こった。ブライアンが自宅のプールで変死したのだ。

 ドラッグとアルコールで死亡したと判断されたが、この事件には不透明な部分が多く、殺害されたという説もある。

 しかしこれがバンド最大の転機となる。ブライアンの後任にはジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズに所属していたMick Taylor ミック・テイラーが迎えられたが、ストーンズにテイラーの繊細さが加わり、バンドは黄金期を迎えるのだった。




オルタモントの悲劇と時代の終わり

 69年の11月からスタートした全米ツアーを最後に、大規模なフリーコンサートで締めくくろうと思っていたミックは、ウッドストックの映画が70年に公開されると知り、自分たちのフリーコンサートのドキュメンタリー映画をそれより早く公開しようと考えていた。

 当初、開催地をゴールデン・ゲートパークにしようと考えていたストーンズだったが、許可が下りず、シアーズ・ポイント・レースウェイに変えた。

 しかし、今度は使用料または映画の配給権を求められたため、開催地を再び変え、最終的にオルタモント・スピードウェイに決めた。

 だが、これがすでにコンサートの数日前。警察も警備をしてくれないという状況で、とうとう暴走族のヘルス・エンジェルズを雇いなんとか間に合わせた。

 そしてコンサート当日、観客は50万人集まったと言われている。サンタナやジェファーソン・エアプレインなどが演奏を続けていくが、ヘルス・エンジェルズが観客に暴力を振るうなど、会場の空気は最悪だった。

 その後ストーンズがヘリで会場に登場! しかし、それと同時にミックが観客の一人に殴られてしまう。

 ストーンズは演奏を開始し、ついに「悪魔を憐れむ歌」が始まった。ミックは「この曲を演奏すると毎回何か起こるんだ」と言うと演奏を始めた。演奏も半ばに差し掛かったときに会場で喧嘩が起こる。

 何とか演奏を続け次の曲に入ると、今度は黒人少年がステージに銃を向けた。すぐさま警備のヘルス・エンジェルズが少年にナイフを刺し袋だたきにする。結果、その少年を含めてコンサートは4人の死者を出し、幕を閉じた。

 ウッドストック・フェスティバルのコンセプトが『LOVE&PEACE』だったのと同様、60年代そのモノのコンセプトが愛と平和だったが、この事件と同時に60年代も幕を閉じてしまう。

黄金期のローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)

 70年に入りストーンズはとても好調だった。皮肉なことにビートルズが解散したことによって、ライバルがいなくなったストーンズはナンバーワン・バンドになった。

 出すアルバム、シングル、すべてが大ヒット。金銭的にも大成功を収めていたように思えるが…英国の高い税金でそうでもなかったらしい。

 しかたなく、ストーンズはフランスに移住することにした。これはミュージシャンとして初めて税金逃れの為に、他の国に移住したということでもある。

 71年には自らのレコード会社「The Rolling Stones Records」を設立。そして、そこからの第一弾アルバム「スティッキー・フィンガーズ」には、ジャケットにアンディー・ウォーホルを起用し大きな話題を集めた。

 また、72年には最高傑作と呼び名の高い二枚組アルバム「メインストリートのならず者」をリリースする。この作品はストレートなロックはもちろん!スワンプ・ロックやブルースなども収録している。

 しかし74年にテイラーが脱退。(このときテイラーはドラッグで適切な判断ができなかったらしい)

 ストーンズはまた新たなメンバーを探す事になる。新メンバー候補の名簿にはジェフ・ベックの名前もあったが、新メンバーはフェイセズに所属していたRon Wood ロン・ウッドが正式に決まった。(ジェフ・ベックがストーンズに加わってたらどんなバンドになっただろうか想像がつかない)

 ストーンズは、ロンの陽気なテイストが加わったことで、より多面的なバンドに成長する。78年にはディスコブームに乗って「ミス・ユー」が大ヒット。意外な曲調にファンを驚かせた。

 しかし80年代に入ると時代の影響もあり、第一線からは退いてしまう。それでもアルバムを出し続けるがあまりパッとしない。とうとう80年代後半に入ると、もうほとんどアルバムも出さなくなり、ライブ中心の活動になってしまう。

 90年に入りスタジオ・アルバムも何枚か出すが、従来の若々しさやエネルギーが感じられなくなってしまった。

 93年にはオリジナルメンバーのビルも脱退してしまい、ストーンズは4人になってしまう。

 98年には「ブリッジ・トゥー・バビロン」がビルボード3位の大ヒットを記録するが、昔からのファンを満足させるまでには至らなかった。

 最近はライブアルバムが中心となっているが、ライブアルバムでは若々しさが健在!相変わらずのエンターテインメントぶりを発揮している。

 2003年にはミック・ジャガーが英国からナイトの称号をもらうが、ミックだけ?いまさら?とファンは感じている。

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