ジョニー・リバース(Johnny Rivers)ヒストリー
駆け出し時代
1942年にニューヨークで生まれ、5歳の時にルイジアナ州バトンルージュに移住し、8歳の時からギターを弾き始め、14歳の時にはバンドに所属して録音も体験していた。
15歳前後の頃に関わっていたバンドには後のドクター・ジョンも関わっていた。1957年(or1958年始め)にはJohnny Ramistella名義でシングルを出してデビューしている。
そして、1958年にニューヨークへ旅行した際に有名なロックンロールDJのアラン・フリードに見初められてプロの道へ歩むこととなり、レコード・デビューも果たしたが、全く成功せずに一度バトンルージュに戻り、1959年にはナッシュヴィルで活動するようになるが、それも全くダメで、またバトンルージュへ戻った。ちなみにJohnny Riversというのはアラン・フリードのアドバイスによって付けられた芸名という。
そして、1961年になると彼は同郷のルイジアナ州出身で当時リッキー・ネルソンのバック・バンドでギタリストとして活躍していたジェイムズ・バートンと共通の知人を通じて知り合うこととなり、ジェイムズ・バートンが彼の音楽に興味を示したことから、リッキー・ネルソンを説得して彼が書いた曲をレコーディングしてもらい、こうして彼はジェイムズ・バートンの紹介でソングライター(彼はほとんど曲を書かないので意外だが)&スタジオ・ミュージシャンとしてロサンゼルスで活動することとなった。本名はJohn Henry Ramistella。
“ウィスキー・ア・ゴーゴー”から飛躍
そして、1963年になると彼にも真のチャンスが訪れた。
それは行きつけのイタリアン・レストランで彼が食事をしていたところ、そのレストランの専属のジャズ・バンドが急に出演できなくなるという事態になり、困ったレストランのオーナーは彼がミュージシャンであることを知っていたので彼に代理を頼んだ。
彼は困りながらもその申し出を受け入れ、知人のドラマーであるエディ・ルービンと2人でステージに立ち、そこでロックンロール・クラシックスを何曲か演奏したところ、レストランのお客たちは拍手喝采で大喜びし、偶然にもお客の中には同じロサンゼルスで開店を間近に控えたライヴ・ハウスの“ウィスキー・ア・ゴーゴー”のオーナーであるエルマー・ヴァレンタインと当時ジャン&ディーンのマネージャーをしていたルー・アドラーがいて、2人とも彼のステージに魅せられ、エルマー・ヴァレンタインは彼に”ウィスキー・ア・ゴーゴー”への出演依頼をし、ルー・アドラーは彼とマネジメント契約を交わすこととなった。
そして、彼はビートルズがアメリカに上陸する直前の1964年1月11日にオープンした”ウィスキー・ア・ゴーゴー”にオープン当初から出演した。
当初はアトラクション・スターとして「ウイスキー・ア・ゴー・ゴー」に出演したジョニー・リバース(Johnny Rivers)だったが、回数を重ねる毎に人気を集め“ミスター・ゴー・ゴー”と異名をとるまでになり、これがインペリアル・レコードでのデビュー5年目にして、ジョニー・リバース(Johnny Rivers)の初ヒットに繋がった。
そのステージをライヴ録音しようと考えたルー・アドラーはインペリアル・レコードとの契約に成功し、1964年5月にその”ウィスキー・ア・ゴーゴー”でライヴ録音(デビューアルバムが12位)した中からチャック・ベリーのカヴァー「Memphis」(全米2位)をシングルとして発売し、いきなり全米トップ3入りする大ヒットとなった。
ジョニー・リバース(Johnny Rivers)カバー曲ヒット年譜
66年4月にはP.F.スローン(P.F. Sloan)作の秘密諜報員(Secret Agent Man)で全米3位を獲得した。この詳細は別記事参照。
その後もビートルズをはじめとするイギリス勢が大攻勢をかける中、ジョニー・リバース(Johnny Rivers)はロックンロールやブルース、フォーク、カントリーなどの有名曲を彼流にカヴァーし、同じく
チェック・ベリーのカヴァー「Maybellene」(全米12位)、
ハロルド・ドーマンのカヴァー「Mountain Of Love」(全米9位)、
クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(C.C.R)でもおなじみのトラディショナル「Midnight Special」(全米20位)、
サム・クックのカヴァー「Cupid」(全米76位)、
ウィリー・ディクソン作でウィリー・メイボンなどで知られている「Seveth Son」(全米7位)、
ピート・シーガーがオリジナルでキングストン・トリオやピーター,ポール&マリーなどでも知られている「Where Have All The Flowers Gone」(全米26位)、
バック・オウエンズのカヴァー「Under Your Spell Again」(全米35位)、
ジョー・バブコック作でエルヴィス・プレスリーやスペンサー・デイヴィス・グループなども取り上げている「(I Washed My Hands In) Muddy Water」(全米19位)
を1966年までにヒットさせている。
秘密諜報員のヒットとその後の路線転換
しかし、彼はその後すぐに当時まだ無名のソングライターだったジミー・ウェッブのデモ・テープを聴く機会があり、そのデモ・テープの中の「By The Time I Get To Phoenix(恋はフェニックス)」をすごく気に入った彼はこれまでヒットを連発していたロックンロール路線からストリングスと女性コーラスを配したメロウなバラード路線への方向転換を計る。
その路線変更をレコード会社は嫌がったが、ジョニー・リバース(Johnny Rivers)とルー・アドラーが共作した「Poor Side Of Town(僕等の街)」を先述したストリングスと女性コーラスを配して録音して1966年11月12日に見事に全米No.1を獲得し、彼の代表曲となった。
そして、アルバム収録曲として先述したジミー・ウェッブ作の「By The Time I Get To Phoenix(恋はフェニックス)」(彼のヴァージョンはアルバム『Changes』で聴ける)を取り上げ、そのすぐ後の1967年にグレン・キャンベルがカヴァーしてグラミー賞を獲得した。
自分のレコード会社を立ち上げる
そして、彼は同1966年に自ら経営するレコード会社”ソウル・シティ・レコード”を設立し、フィフス・ディメンションを専属アーティストとして迎えてジミー・ウェッブにプロデュースを任せた。
そういうことでジミー・ウェッブに惚れ込んでいた彼は、1967年にシングルとして大ヒットしたフォー・トップスのカヴァー「Baby I Need Your Lovin’」(全米3位)とスモーキー・ロビンソン&ミラクルズのカヴァー「The Tracks Of My Tears(ひとすじの涙)」(全米10位)でこそジミー・ウェッブを起用しなかったが、その2曲を収録したアルバム『Rewind』ではジミー・ウェッブの曲を取り上げてアレンジもジミー・ウェッブに担当させた。
ロックンロール路線に再転換
そして、1967年末にリリースして翌1968年初めにヒットしたジェイムズ・ヘンドリックス(ジミ・ヘンドリックスとは別人)作の「Summer Rain」(全米14位)あたりでそういったバラード路線とは区切りをつけて、その後はまた以前のようなカヴァーを中心に展開していったが、チャート的には以前のような大ヒットとはいかないまでも1970年にはヴァン・モリソンのカヴァー「Into The Mystic」(全米51位)のような時代に即した楽曲を彼流にカヴァーしてヒットさせることに成功している。
そして、1972年にはジョニー・ヴィンセント&ヒューイ・スミスのカヴァー「Rockin’ Pneumonia – Boogie Woogie Flu(ロッキン・ブギウギ)」(全米6位)が久々に全米トップ10入りした。
Johnny Rivers 1972 Rockin’ Pneumonia and Boogie Woogie Flu
1973年にはカール・パーキンスのカヴァー「Blue Suede Shoes」(全米38位)もまずまずのヒットを記録した。そして、1975年にビーチ・ボーイズの全米No.1ヒットのカヴァー「Help Me Rhonda」(全米22位)(バック・コーラスにはブライアン・ウィルソンが参加)をヒットさせ、1977年にはイーグルスの「Peaceful Easy Feeling」の作者として知られているジャック・テンプチン作の「Swayin’ To The Music (Slow Dancin’)」(全米10位)を全米トップ10入りさせた。
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