オーティス・レディング(Otis Redding)|音楽人生のあゆみ

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オーティス・レディング(Otis Redding)が登場した時代背景

 60年代。それは、アメリカにおけるマイノリティの権利獲得運動(公民権運動)が激しさを増した時代でもあるが、中でも黒人の意識の高まりがある頂点に達した時、「SOUL」という、もともとは教会をイメージさせる言葉が、業界用語であった「リズム&ブルース」と入れ替わるように使われ始めたのである。

 「我々は、魂を持った、人間である」という主張。その人間が魂の歌を歌う。それが「ソウル・ミュージック」だった。

 サム・クック、レイ・チャールズ、ジャッキー・ウィルソン、リトル・リチャードほか、ソウルの時代の幕開けを飾った名シンガーのあとに続き登場したのが、のちに「ビッグ・オー」の愛称でも知られることとなるオーティス・レディング(Otis Redding)だった。

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オーティス・レディング(Otis Redding)のプロフィール

オーティス・レディング(Otis Redding)の生誕

 オーティス・レディング(Otis Redding)は、1941年9月9日、南部のジョージア州ドーソンに生まれている。オーティスの父は日曜牧師として、町でゴスペルを教える偉大な指導者だった。貧しいながらも長男であるオーティスは、町の聖歌隊に入り、歌う喜びを知る。

 1950年代、彼はメイコンで育ったが、そこはR&Bの盛んな街で、ジョージア州は、レイ・チャールズやリトル・リチャードが生まれ、ジェイムズ・ブラウンが育った場所である。

 オーティスは、ロックンローラーとして凄まじいステージをこなしたリトル・リチャードや、サム・クックら先輩たちの歌を聞き、影響されながら腕を磨いた人物だった。

 神への感謝を歌うゴスペルよりも、身近な人生の喜びをエネルギッシュに歌うソウルミュージックを、オーティスは好んで歌うようになるが、父はソウルを「悪魔の歌」として忌み嫌った。

 勉強はそっちのけで、ライブハウスに通いづめて歌うオーティスは、町ののど自慢コンテストの常連になり、出れば必ず優勝した。

 17歳で高校を中退してガソリンスタンドでバイトをしながら、朝から晩まで歌うオーティス。10セントのケチャップパンをほおばりながら、スターシンガーを夢見ていた。

メジャーデビューまでの道のりは険しく暗中模索の日々が続く

 そのころ、意外なファンがオーティスの前に現れる。白人の兄フィルと弟アランのウォルデン兄弟だ。ウォルデン兄弟は、オーティスのライブを見て衝撃を受け、とうとうマネージメントを買って出た。

「オーティスのパワフルな歌を、初めて聴いたときから魅了されてしまった。そう、ほんとうに腰が抜けたんだ」

 白人と黒人がいっしょに働くなんてありえなかった時代に、3人は意気投合した。大人たちが越えることができなかった人種の壁を、彼らは歌を通していとも簡単に乗り越えてしまった。

 だが3人の共同作業は、なかなか理解されなかった。行く先々で白人からは白い目で見られ、旅先でも、白人のホテルではオーティスは入れず、黒人のホテルではウォルデン兄弟が泊まれず、結局3人は車で寝泊りしたこともあった。

 地元のタレント・コンテストなどに出場した後、彼は宗教活動のために突如引退してしまったリトル・リチャードの代わりとしてアップセッターズのヴォーカルに選ばれた。

 当時、彼はソウル界の大御所サム・クックやソロモン・バークを目標にヴォーカリストとしての実力をつけつつあった。

 1960年、彼は姉が住んでいたロサンゼルスで初めてレコーディングを行うが、この時録音した「She’s Alright」は発売されずに終わる。

 故郷ジョージア州に戻った彼はアセンズの街にあったコンフェデレイト・レコードから「シャウト・バマラマ」という曲を発表し、南部限定ながら小ヒットとなった。

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やっとチャンスを掴み、「These Arms of Mine」がヒット

 その後、彼はジェニー・ジェンキンス率いるパイントッパーズと共にライブ活動を行いメイコン周辺を回る生活を続けた。そんな中、彼の人生を変える大きなチャンスが巡ってきた。

 彼に大きな転機が訪れるのは1962年10月、メンフィスでのことである。それまで小さなレコード会社から若干のレコードを発売したこともあったオーティスだが、この時、新たなレコーディングのチャンスをつかむ。

 同郷のミュージシャン、ジョニー・ジェンキンズのレコーディングに運転手として同行した設立2年目の新しい会社スタックス・レコードで、彼は空き時間に歌わせて欲しいと申し出たのである。ここで彼は2曲吹込みを行う。その2曲のうちの1曲が、彼の記念すべきデビュー曲「These Arms of Mine」であった。

These Arms of Mine

Otis Redding These Arms Of Mine

 社員のディニー・パーカー女史は、当時のことをこう振り返る。

「最初の印象は、とにかく地味。物静かだし。ところがひとたび、彼が歌いだすと、みんなびっくりした。その場でレコーディングが決定した」

 のちにバックバンドでギターを弾くことになるスティーブ・クロッパーは、そのときを鮮明に記憶している。

「オーティスはスタジオに歌いながら入ってきたんだ。それだけで釘付けだったね。 せつない思いがした。ずっと彼の歌を聴いていたいと思った。時間が止まった」

 この時の録音を聴いたスタックスの共同オーナーだったジム・スチュワートはオーティスの歌に感動。さっそく彼と契約を結び、「These Arms of Mine」をヴォルト・レーベルからデビュー・シングルとして発売。

 すると、すぐにこの曲はR&Bチャートを上昇し始めて、最高20位に達するヒットとなった。

 オーティスのこの行動が、スタジオ中を驚かせるどころか、80万枚も売れるヒットを生み出し、ひいては、まだまだ小さかったスタックスを世界にとどろく名門レーベルへと急上昇させる一因となったのである。

 その歌とは、「These Arms of Mine」。彼の自作である。

この私の腕が、君を求めている。この腕が寂しい。この腕が燃えている。

 二十歳そこいらの青年が歌った作品とは思えない成熟の向こうから聞こえてくるのは、「誠実」というメッセージだった。

 ソウル・ミュージックは娯楽音楽には違いないが、娯楽の中にも、一つや二つ、マジに、正面を向いて語りかける姿勢があってもいいはずだ…オーティスの歌い口には、まさにそう感じさせる情熱があった。そしてそれこそが、ソウル時代のブラック・ミュージックだったのである。

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モントレーでの大成功が人種の壁を破る

 やがてチャンスが巡ってきた。1967年6月、西海岸で大々的に催された「モントレー・ポップ・フェスティバル」

 新しい音楽の祭典で、既成に捉われない白人のミュージシャンが集った。サイモン&ガーファンクル、ジャニス・ジョップリン、ジェファーソン・エアプレーン…。

 そんななか、ソウルから唯一、オーティスが参加した。ソウルなんて聴いたことない聴衆、人種の壁。「やらなきゃいけない」オーティスのステージは、4万人の聴衆を圧倒した。予想を上回る反響。

ライブハウス「フィルモア・ウエスト」出演で白人層へのアピール

 モントレーでの大成功のあと、オーティスは喉の不調を訴える。ポリープ。2ヶ月間、医師に歌うことを止められる。

 オーティスの名曲の数々を生み出したスタジオでのセッションがミュージシャンたちを幸福な気持ちにさせたのだから、彼のライブが観客たちを楽しませないはずはない。

 1967年6月のモントレー・ポップ・フェスティバルに出演するまで、オーティスは白人観客層には未知の存在だった。その時の5万人の観客が彼のパフォーマンスに衝撃を受けて以降、やっと彼の存在は知られるようになる。

 そして、彼の噂を聞いた西海岸の大御所プロデューサー、ビル・グレアムは早速彼を自身のライブハウス「フィルモア・ウエスト」に出演させようと動き始める。

 こうして1966年12月、彼は初めてサンフランシスコのフィルモアのステージに立つことになった。

 ビル・グレアムが仕切っていたフィルモアは、当時ヒッピームーブメントの中心でもあり、白人の若者たちを客層とするライブハウス。

 オーティスもフィル・ウォルデンも、白人層へのアピールのチャンスを求めていただけに、それは最高の挑戦の場だったといえる。もちろんビル・グレアムにとっても、オーティスを呼ぶことは彼のライブハウスにとって、重要なイベントだった。

 当時、フィルモアに出演していたミュージシャンたち、ポール・バターフィールド、マイク・ブルームフィールド、ジェリー・ガルシア、ジャニス・ジョプリンらがそろってナンバー1アイドルとして名前を上げていたのがオーティスであり、誰もが彼のライブを見たがっていた。

 ビル・グレアムは、なんとしてもオーティスを呼び寄せようと、自ら彼の住むメイコンにまで出向き、出演交渉に臨んだ。

「街中のアーティストが、オーティスの前座をやらせてくれと言ってきた。最初の晩には、グレイトフル・デッドがやった。その日、ジャニス・ジョプリンは、ぜったい一番前の席に座れるように、昼の3時にやってきた。今日のこの日まで、あそこまで同業者を動員しまくったミュージシャンはほかにいない。本気で音楽をやっているミュージシャンは、一人残らず来た。オーティスはホンモノだった。ホンモノの男だった。R&B好きも、白人のロックンロール好きも、黒人のロックンロール好きも、ジャズ好きも、みんなオーティスを見にやって来た。・・・」 ビル・グレアム

フィルモアのライブで完全に観客を打ちのめしたオーティス

 彼のライブ・パフォーマンスは、計算された野獣の叫びとセックス・アピールによって、観客を虜にする魔力を持っていた。

 女性の観客は特にその魅力に圧倒され、黒人、白人など人種の壁など関係なくメロメロにしてしまった。こうした人種を超越した黒人アーティストは初めてだったのかもしれない。

 当然、特別な何かを予想はしていたけれど、ここまですごいとは思ってもみなかった。まさに野獣だ。あの晩のオーティスは、ほかの誰にもできないことをやってのけた。彼はまず「ファファファファ」を歌って客席に手拍子を打たせた。曲が終わっても、観客は「イェイ!イェイ!」と叫びながら、狂ったように喝采をつづけている。で、それがようやく収まりそうになると、オーティスは狙いすましたように、「おまえを愛しすぎて・・・」と歌いはじめるんだ。客席が静まりそうになるたびに、あの男は新しく火をつけた。観客が正気をとりもどす寸前に。・・・  あの男がすばらしかったのは、当の本人は落ち着いていたことだ。レイドバックしていたというか。・・・ ビル・グレアム

 その後も、ローリングストーンズなどロック界の大物たちのライブを数多く手がけることになるビル・グレアムはオーティスのライブについて後にこう語っている。

「あれは、わたしが打った中でも最高のライブだった。あの時点ですでに、それはわかっていた。そこにはあいまいさのかけらもない。オーティス・レディングがフィルモアでやった3夜連続公演こそが、最高、最良のライブなんだ。・・・」

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オーティスの特徴的な曲作り

 1962年のレコード・デビュー以降、彼は着実にヒットを飛ばしてゆく。

 「Pain in my Heart」(1963年)、

 「That’s How Strong My Love Is」(1964年)、

 「Mr. Pitiful」(1964年)、

 「I’ve Been Loving You Too Long」(1965年)

 どちらかといえば、当初はバラードを中心にしていたが、彼のライブでの見せ場は何と言ってもアップテンポなダンス・ナンバーである。その代表曲ともいえるのが1965年発表の「Shake」。

シェイク(Shake)

Otis Redding – Shake

 オーティスはオリジナル曲も多くあったが、カバー曲を自分のものにして、オリジナルとは別のものにしてしまう才能がズバ抜けていた。

 その曲作りの中心はやはりオーティス自身であったが、白人ギタリストのスティーブ・クロッパーとその他のスタックスのミュージシャンたち(ブッカー・T&MG’sなど)とのセッションこそがその原点だったといえる。

 オーティスは走り続けた。週に7日のライブを要求。白人からどんなに差別を受けても、言われてもけっしてケンカをしない。そんなことをしたら、相手の思う壺。

「黒人がやればソウルで、白人がやればロック?
そんなことはどうでもいいね。
とにかくおれは、人の前で歌うのが好きさ」

 オーティスは酒もドラッグもやらない。ひたすら音楽だけ、次から次へ音楽をつくって歌っていた。

「シャウト(叫び)は魂の解放。魂で感じとってくれ」

 レコードデビューから4年、オーティスは壁にぶつかっていた。デビュー時に結婚した妻との間に子供にも恵まれた。金も稼ぎ、牧場つきの豪邸に住んだ。

 ●バラードの名作「愛しすぎて」や「この強き愛」、

 ●ダイナミックな声を聴かせる「アイ・キャント・ターン・ユー・ルース」、

 ●「シェイク」「サティスファクション」、

 ●のちにはローリング・ストーンズにカバーされる「この強き愛」や「ペイン・イン・マイ・ハート」…

 出す音楽はヒットはするが、爆発的なセールスには結びつかない。

 いつしかオーティスは、「黒人には支持されるが、白人には支持されない」というレッテルをはられ、どの歌もトップ10入りまではいかない。

 とにかくオーティスは、No.1になりたかった。

愛しすぎて(I’ve Been Loving You Too Long)

Otis Redding – I've Been Loving You Too Long




ローリングストーン誌のインタビュー(1968年)

 モータウンは重ね録りが多い。機械を使った録音だ。スタックスのやり方は、こうなんだ。どんなことでもいいから、感じたことを演奏する。ホーンもリズムも歌も、全部一緒に録音する。3回か4回やった後、聞きなおしてみて一番できのいいのを選ぶ。誰か気に入らないところがあったら、また全員でスタジオに戻って曲の最初から最後まで演奏しなおす。
去年まで4トラックのテープ・レコーダーさえなかったんだ。1トラックの機械では重ね録りできないだろう。

 例えば、彼の代表曲「シェイク(Shake)」(1965年)におけるMG’sとマーキー・ホーンズの演奏の場合。

 まるで機関車のように勢いよく突き進むパワフルな演奏は、彼のヴォーカルとバックの演奏が完全に一体化している。これはオーティスのヴォーカルにピッタリと寄り添うことのできるミュージシャンでなければ不可能な仕事である。

 この曲も元々サム・クックがオリジナルだが、まったく別の曲といえるほどのスピード感をもつ曲に生まれかわっている。

 ジェームズ・ブラウンは、かつてホーン・セクションをリズム楽器として使うことでファンク・ミュージックに革命を起こした。

 それに対しオーティスはホーン・セクションに自分と同じようにリズム楽器とメロディー楽器、両方の仕事をさせている。

 「シェイク」以上に大きく変えてしまった曲としては、ローリングストーンズの代表曲「サティスファクション」(1966年)のカバーがある。

 この曲もまた原曲をよりスピードアップさせているが、それだけではなく、歌の中で「サティスファクション」と発音するところをわざと「サティスファッション」と変えている。

 こうした歌詞の変更は彼の得意技で、後の「Try A Liittle Tenderness」も、彼はライブで歌詞を変えて歌っていた。

 実は、彼は「サティスファクション」の原曲を聞かずに楽譜だけで自分用の編曲をしたという。

 発売時期もほとんど差がなかったことから、オーティスのカバーがオリジナルだと勘違いした人も当時多かったという。(その意味では、オーティスが「サティスファクション」を選んだ選択眼も大したものだ)

 オーティスにカバーされることは、作曲者にとっては幸いなことだったのであろうが、カバーされる歌い手にとっては嫌なことだったかもしれない。

Try A Liittle Tenderness

Otis Redding – Try A Little Tenderness

 スタジオでの録音の際、彼はすべての楽器について指示を出し、それを口で真似しながら録音を行ったという。

 その時の口癖「ファ・ファ・ファ・ファ・・・・」は、スタジオ・ミュージシャンたちにとっても忘れられないもので、ギタリストのスティーブ・クロッパーはそのフレーズを元にオーティスの代表曲「FA-FA-FA-FA-FA(Sad Song)」(1966年)を作ったといっている。

 不思議なことに、オーティスがホーン・ラインの着想をどうやって得ていたかは誰も知らない。その影響がどういうものだったかも、他の連中のホーン・アレンジについてオーティスが話しているのを誰も聞いた記憶がないのだ。 ロブ・ボウマン(ジャーナリスト・音楽学者)

FA-FA-FA-FA-FA(Sad Song)

FA-FA-FA-FA-FA (Sad Song) by Otis Redding LIVE 1967
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オーティス・レディングの音楽性の特徴

名曲「Try A Liittle Tenderness」誕生

 彼の代表曲であり多くの人が最高傑作と呼ぶ「Try A Liittle Tenderness」(1966年)をオーティスのオリジナル曲と思っている人は多いはずだが、実はこれもまたカバー曲。それも30年代に作られた古い曲で、最初に歌ったのはビング・クロスビーだったとのこと。

 元々この曲はオーティスのマネージャー、フィル・ウォルデンが、エド・サリバン・ショーに出る時に歌える曲を作っておこうと言い出したことから選ばれ、録音されることになったという。

 オープニングからの美しいホーンのアレンジは、スタックスを後に支えることになるアイザック・ヘイズによるもの。

 スネアの縁を叩く印象深いドラム演奏は、アル・ジャクソンのアイデア。

 余計な飾りつけを取り除き、それぞれの楽器が究極のパフォーマンスを展開するという点でこの曲はオーティスの代表曲であると同時にスタックス・レーベルの黄金時代を象徴する曲だった。

「『Try A Liittle Tenderness』はわたしのフェバリットだよ。レコード制作という点から見て、彼が作ってきたすべてのもの、そうすべてのもの、何から何までのやり方で、あの曲はベストだった。ジャクソンがテンポを変える時はまるでメトロノームのようだろう。あのドラムパートにはしびれっ放しさ。どのドラマーだって、正確にあんなことできやしない。スタックスのすべてのレコードの中でもわたしのフェバリットの1曲だ。最初から終わりまで、スタックスの歴史がそこにこめられているといっていいね」 ジム・スチュアート(スタックス社長)

人間の心情を語ったオーティス

 ジョニー・ジェンキンズのバンドで鳴かず飛ばずの存在だったオーティスの人生は、「These Arms of Mine」1曲で激変することになった。

 オーティス・レディングは、60年代の黒人音楽の中心部へと進み出た。

 当時のブラック・ミュージックは、デトロイトに大ヒット・レーベル、モータウンがあり、シカゴにはジ・インプレッションズ(カーティス・メイフィイールド)らがいて、60年代の後半からはアリサ・フランクリンがニューヨークのアトランティック・レコードと契約し、名実共に「ソウルの女王」へ上り詰める、そんな時代だった。

 ウィルソン・ピケット、ジェイムズ・ブラウン、ソロモン・バーク、ジョー・テックス、サム&デイブ……数多くのスタイリスト、ヒット・メイカーが活躍する中で、オーティスが在籍したスタックス・レコードは、アラバマのフェイム・スタジオとならび、南部の味わいとダイナミクスを提供するソウルの「台風の目」となっていく。

 ちなみにアトランティック・レコードがピケットやアリサたちを、わざわざ南部へ連れて行き、歴史的な録音を行なったことは、あまりにも有名である。

 オーティス・レディングは、この南部メンフィスのスタックスで、「台風」を起こす中心人物となったのである。

 雄々しくドラマティックなラブ・バラード「この強き愛」(64年)、苦渋に満ちた愛の告白「愛しすぎて」(65年)ほか、しみじみと胸に染み入るこれらのスロウ・ナンバーは、現在の音楽から見れば、ほとんど小細工がないに等しい。

 歌がいい。歌に気持ちが充分に乗っている。バンドはそれを十全に盛り上げる。たったそれだけのことだ。しかし、初期のビートルズら当時のロックにも当てはまることだが、だからこそシンガーの隠しようもない熱意が伝わるのである。

 オーティス・レディングは、ほとんどのアメリカ黒人にとっての古里である南部で、誠実に、人間の心情を語った巨木として大いに敬意を払われたシンガーとなった。

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シンガーとバンドが一体となったオーティスの音楽

 オーティス・レディングの歌のもう一つの魅力は、バックマンとのコンビネイションの良さである。

 モータウンのセッション・バンド「ファンク・ブラザーズ」(通称)や、ジェイムズ・ブラウンのバックメンなど、当時の黒人シンガーは同じソウル・ミュージックといっても多様なバンドが存在し、それぞれが独自のサウンドを持っていた。

 オーティスのバックを努めたのは、映画『ブルース・ブラザーズ』のシリーズでも有名な、スティーブ・クロッパー(ギター)、ドナルド・ダック・ダン(ベース)ら、スタックスのハウス・ミュージシャンだった。

 彼らバックメンはブッカー・T&ザ・MGズの名義でヒットも作っているが、シンガーとバンドが一体と化したスリムで、しかしハガネのような強靭なビートは最高である。

 特にそれがわかるのがアップ・テンポの曲で、例えばメンフィスの歌姫、カーラ・トーマスとの熱愛デュエット「ラヴィ・ダヴィ」などは、後ろのホーンも含め、怒涛の攻めとしか言いようがない。

 オーティスの重量級ボーカルをさらに後押しする、アル・ジャクソン(ドラム)のハード・キック&パンチ。二人の周りをカミソリのようなギター・カッティングやホーンが切り込みをかけてくる。こんな素晴らしい曲ですらファンの間だではさほど話題にならないのだから、オーティス&ヒズ・リズムとは、どれほどのクオリティを誇っていたかが知れるのである。

 そしてもう一つ注目すべきなのが、カントリー&ウェスタンの味わいである。

 これは「ドッグ・オブ・ザ・ベイ」ほか、共作者としても優れた作品を書いたスティーブ・クロッパーの音楽性に顕著なのだが、ちょっとしたメロディ・ラインやリフなどに、南部のもう一方の文化、白人の伝統が活かされているのである。

 実はスタックスも、アラバマのフェイム・スタジオも、熾烈な黒人差別が横行した南部において、信じられないような人種間の融和があったスポットとして知られてきた。

 クロッパーもダック・ダンも白人である。そんな二人が黒人街へやってきて、何の差別もなしに、一人のミュージシャンとして意見をぶつけた。このような「人間」としてのインタープレイの成果が、オーティス・レディングのソウルだったのである。

 スタジオでのセッションは、優れたミュージシャンたちによる緊張感にあふれたバトルであり、演奏が悪ければその録音が採用されない場合もある厳しいものだ。

 しかし、オーテイスを中心とするスタックスのセッションはまったく違ったようである。そして、それは彼の人間的魅力によるところ大だったようだ。

「何人かのアーティストはやろうとすることがあまりにきびしすぎて、みんなにやる気をなくさせてしまったもんだよ。でも、オーテイスがスタジオに来た時には、うれしさと笑いで包まれるんだな。プレイしている間中、笑い続けていたよ。誰かが音をミスっても、あわてやしない。笑ってこう言うんだ。『うまくいくぞ』。それでわかるのに時間がかかれば、彼はギターを持ってきてやってみせる。楽しい楽しい時だったなあ」 フロイド・ニューマン(スタックスのミュージシャン)

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