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ドック・オブ・ザ・ベイ(Sitting On The Dock Of The Bay)~Otis Redding

Artist(English)
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はじめに

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オーティス・レディングは41年生まれのアメリカのシンガーソングライター。正確にはオーティス・レイ・レディング・ジュニア(Otis Ray Redding Jr.)

「ソウルの王」と呼ばれ熱狂的な信奉者が多くその後のアーティストにも彼の精神は脈々と受け継がれている。

60年代初めに音楽活動を開始して62年には初のシングル「These Arms Of Mine」がR&Bチャートで20位を獲得し、その後の活躍はソウル界に大きな影響を与えたがこの「ドック・オブ・ザ・ベイ」を録音した3日後の67年12月10日に飛行機事故で26歳という若さで亡くなった。

翌68年にこの曲は発売されオーティスにとって唯一のビルボード1位獲得曲となった。作詞・作曲は、オーティス・レディングとスティーヴ・クロッパー。原題は「Sitting On The Dock Of The Bay」



オーティス・レディングが登場した時代背景

60年代。それは、アメリカにおけるマイノリティの権利獲得運動(公民権運動)が激しさを増した時代でもあるが、中でも黒人の意識の高まりがある頂点に達した時、「SOUL」という、もともとは教会をイメージさせる言葉が、業界用語であった「リズム&ブルース」と入れ替わるように使われ始めたのである。

「我々は、魂を持った、人間である」という主張。その人間が魂の歌を歌う。それが「ソウル・ミュージック」だった。

サム・クック、レイ・チャールズ、ジャッキー・ウィルソン、リトル・リチャードほか、ソウルの時代の幕開けを飾った名シンガーのあとに続き登場したのが、のちに「ビッグ・オー」の愛称でも知られることとなるオーティス・レディングだった。

オーティス・レディングの歌声と映像

Otis Redding(オーティス・レディング)

Otis Redding – Sitting On The Dock Of The Bay

ミュージックビデオ

Otis Redding – (Sittin' On) The Dock Of The Bay (Official Music Video)

この曲をオーティスと共作したギタリストでプロデューサーのスティーヴ・クロッパーが1990年のインタビューで述べている。

オーティスは100ものアイデアを持っていたよ。サンフランシスコのボートハウスに滞在していた時に船が港に来るのを見ているうちにアイデアが沸いたんだ。この曲を聴くと、オーティス自身のことを書いているんだって思うよ。彼はいつも自分のことを書いたりはしないけどね。”I left my home in Georgia,headed for the Frisco Bay”も彼が音楽をやりにサンフランシスコに来たってことをまさに歌ったんだと思うよ

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オーティス・レディングのプロフィール

オーティス・レディングの生誕

オーティス・レディングは、1941年9月9日、南部のジョージア州ドーソンに生まれている。オーティスの父は日曜牧師として、町でゴスペルを教える偉大な指導者だった。貧しいながらも長男であるオーティスは、町の聖歌隊に入り、歌う喜びを知る。

1950年代、彼はメイコンで育ったが、そこはR&Bの盛んな街で、ジョージア州は、レイ・チャールズやリトル・リチャードが生まれ、ジェイムズ・ブラウンが育った場所である。

オーティスは、ロックンローラーとして凄まじいステージをこなしたリトル・リチャードや、サム・クックら先輩たちの歌を聞き、影響されながら腕を磨いた人物だった。

神への感謝を歌うゴスペルよりも、身近な人生の喜びをエネルギッシュに歌うソウルミュージックを、オーティスは好んで歌うようになるが、父はソウルを「悪魔の歌」として忌み嫌った。

勉強はそっちのけで、ライブハウスに通いづめて歌うオーティスは、町ののど自慢コンテストの常連になり、出れば必ず優勝した。

17歳で高校を中退してガソリンスタンドでバイトをしながら、朝から晩まで歌うオーティス。10セントのケチャップパンをほおばりながら、スターシンガーを夢見ていた。

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メジャーデビューまでの道のりは険しく暗中模索の日々が続く

そのころ、意外なファンがオーティスの前に現れる。白人の兄フィルと弟アランのウォルデン兄弟だ。ウォルデン兄弟は、オーティスのライブを見て衝撃を受け、とうとうマネージメントを買って出た。

「オーティスのパワフルな歌を、初めて聴いたときから魅了されてしまった。そう、ほんとうに腰が抜けたんだ」

白人と黒人がいっしょに働くなんてありえなかった時代に、3人は意気投合した。大人たちが越えることができなかった人種の壁を、彼らは歌を通していとも簡単に乗り越えてしまった。

だが3人の共同作業は、なかなか理解されなかった。行く先々で白人からは白い目で見られ、旅先でも、白人のホテルではオーティスは入れず、黒人のホテルではウォルデン兄弟が泊まれず、結局3人は車で寝泊りしたこともあった。

地元のタレント・コンテストなどに出場した後、彼は宗教活動のために突如引退してしまったリトル・リチャードの代わりとしてアップセッターズのヴォーカルに選ばれた。

当時、彼はソウル界の大御所サム・クックやソロモン・バークを目標にヴォーカリストとしての実力をつけつつあった。

1960年、彼は姉が住んでいたロサンゼルスで初めてレコーディングを行うが、この時録音した「She’s Alright」は発売されずに終わる。

故郷ジョージア州に戻った彼はアセンズの街にあったコンフェデレイト・レコードから「シャウト・バマラマ」という曲を発表し、南部限定ながら小ヒットとなった。

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