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ホワッド・アイ・セイ(What’d I Say)~Ray Charles

Artist(English)

 アメリカ・ジョージア州出身の盲目歌手でピアニストのレイ・チャールズが初めて59年にミリオンセラーを記録したのがこの曲。原題は「What’d I Say」最初の邦題は「何と言ったら」であることを知る人はどれだけいるか。今は全く使われていない。

 1959年『ホワッド・アイ・セイ』が世に出た後のことだった。ピッツバーグ郊外でのダンスパーティで15分余った時間を埋めるために演奏したのが始まりといわれるこの曲では、ほぼ一つのリフだけが繰り返される。
 それをレイが艶やかに装飾し、喘ぎ声のやり取りが繰り返されるクライマックスで、女性コーラス・グループレイレッツがオーガズムへと導く。これがゴスペルの手法を導入したものであることは有名である。
 これこそが、白人向けラジオ局の電波に初めて乗ったR&Bソングだった。
 この後、彼はダンスパーティではなくコンサートを開くようになった。そして彼にもう一つの変化、即ち好条件でのABCレコード移籍をもたらした。この時、彼は29歳。

レイ・チャールズの生い立ち

 レィ・チャールズ・ロビンスンは1930年、ジョージア州アルバニーで生れた。フロリダ州のグリーンヴィルで成長する。
 幼い頃、母が洗濯の請負仕事に使っていた洗い桶の中で弟が溺れ死ぬのを目の前で見たチャールズは心に大きな傷を負うが、彼自身も6歳になる頃から緑内障のため視力を失い始める。
 7歳の時、両親は彼をセント・オーガスティン盲学校に入れる。チャールズはそこで点字を使って楽譜の読み書きを学び、ビック・バンド用の曲を書き、ピアノ、アルトサックス、オルガン、クラリネット、トランペットといった楽器の演奏を学んだ。

 音楽に関して彼が最初に影響を受けたのは、ショパン、シベリウス、アート・テイタム、アーティ・ショウ、そしてグリーンヴィルのバー『レット・ウイング・カフェ』の経営者だったウイリー・ピットマンである。ピットマンが幼いチャールズにピアノの道へ進むことを勧めたのだという。
 彼がミュージシャンで本格的に飯を食っていこうと決意したのが、終戦の年(1945年)に母親を亡くした直後だから、セミ・プロとしての演奏活動は戦前からやっていることになる。15歳の時に母に死なれ、天涯孤独の身になったチャールズは、学校を中退してジャクソンヴィルに移り、本格的にプロのミュージシャンとしての道を歩み始める。

 家族もなく、友人もいない。そして美しい夕焼け、様々な色、母の面影など、目に見える世界と結びつける映像の記憶も日を追うごとに薄れていく・・チャールズの子供時代は、想像を絶するほど孤独なものだったに違いない。

音楽家としての成長

 彼にとっての真実は音楽だけだった。学校を辞め、一人で歩き出したチャールズが初めて参加したのはカウント・ベーシー楽団のようなビックバンドで、その後ルイ・ジョーダン・スタイルの小編成のグループに入り、ヨーデルも覚えた。

 チャールズはその頃からすでに、あらゆるサウンドに対してオープンな姿勢を持っていた。クラッシックもジャズもビートの激しいものロマンティックなものも、全ての音楽を差別することを拒んだのである。

 17歳になったチャールズは、全財産の600ドルを持って、西の果て・・ワシントン州シアトルに辿りつく。 当時、シアトルの音楽シーンで天才少年として名を馳せていた15歳のクイシーン・ジョーンズは、越してきたばかりチャールズに会っている。ジョーンズが入っていたジュニア・オーケストラに、チャールズが時折、曲のアレンジをしていたからだ。 ジョーンズはこう言う

『レィは、まるで40歳の大人みたいな感じだったよ。女性の扱い方から人生にいたるまで、とにかく何でも知っていたからね。誰にも頼らない、完全に独立した男だったな』

 彼の名前が『レィ・チャールズ』になったのも、このシアトル時代のことである。理由は、偉大なる世界ミドル世界チャンピオン、シュガー・レィ・ロビンスンと間違われないためだった。

 1948年、チャールズは初のレコーディング作品『コンフェッション・ブルース』をジャック・ローダーデイルのダウンビート・レーベルからリリースする。

 この後の4年間で、チャールズはローダーデイルのレーベルから40曲以上を発表している。まずまずのR&Bヒットにはなったが、若さに似合わぬ上品な雰囲気と、どれもナット・キング・コールやチャールズ・ブラウンの作品とほとんど区別がつかないようなものばかりだった。

 当時の彼はポピュラー・テイストが色濃く感じられる。さまざまなサウンドに対するチャールズの飽く事のない貪欲さが、彼の作品にも表れている。

 1952年にアトランティック・レコードと2500ドルで契約したとき、チャールズはすでに様々なスタイルをこなす柔軟さを備えていた。

 スイング・タイムレコードからアトランティックへ移籍し、“I’ve Got A Woman”を発表した1954年には、レイ・チャールズという一人のミュージシャンの中で、Jazz、Swing、Jump(Jive)、C&W、Blues、Gospel・・という様々なルーツが混合し終え、“Ray Charles”という1POPジャンルをすっかり完成させていた。

 それが、たまたま後に“R&B”と呼ばれる事になる音楽のキッカケになった。

アイ・ガット・ア・ウーマン(I Got A Woman)~Ray Charles
レイ・チャールズが神聖なゴスペルを俗世の恍惚の叫びへと変貌させた当初、彼は聖職者から激しい批判を受けた。だが、いったん表舞台に出た音楽は、公民権運動と歩調をあわせ、その成功は人種差別撤廃に向けて大いなる歩みを反映し、その人気は社会変化のイメージをそのまま写しだすまでになった。

 しかし当時の彼は、本人に言わせれば、まだ『レィ・チャールズ』ではなかったし、自分のキャリアについて特別大きな感概を抱いたこともなかったという。 すでに、フルスンと共にアポロ・シアターでショーを開き、R&Bチャートのトップ・テンに入るようなヒットを何曲か飛ばし、アトランティックスという将来性豊かなレーベルと、ついに契約を結んだにも関わらずに。

 常にクールな彼の興奮ということに関していえば、演奏以外であるとするならば、それはクラブ・アラバマでアート・テイト・テイタムに初めて会った時のことだ。

『ある晩、たまたまアート・テイタムがやって来た。俺もその場にいたから、誰かに紹介をしてもらったんだ。店内が急に静まりかえったから、大物が現れたとすぐ分かったよ。凄かったな。『なんだ?』と感じて、みんなが振り向く。  それで初めて気づくんだ。今はもう、こういうのはない、誰がいようがお構いないなしだからな。アート・テイタムに紹介されたときは、すっかり恐縮してね、何もいえなかったよ。そうだろう、神様に何を言ったらいいんだよ』・・・・・

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「ホワッド・アイ・セイ」の誕生

 レイ・チャールズは自分のバンドを率いて活動を続け、ゴスペル・ナンバーを下敷きにして曲を作り次々とヒットを飛ばした。さらにチャールズは教会のクワイアに猥雑さを加味したようなレイレッツという女性コーラス・グループまでもバンドに加えた。

 この後5年間、彼はまさに一人勝ちと言うに相応しい成功を収めることになる。リズムが躍動する『イエス・インディード!』『ハレルヤ、アイ・ラブ・ハー・ソー』欲望をストレートに歌った『ナイトタイム・イズ・ザ・ライトタイム』などを始め、20~30曲が生れている。

 しかしどんなに賞賛を受けようとも、そのパフォーマンスがどれほどの美的興奮に溢れていようとも、レイ・チャールズはいまだにチリトン・サーキット巡りを繰り返し、自分と同じ人種の前でしか演奏が許されない、一介のR&Bシンガーに過ぎなかった。当然ながら、チャールズの観客は黒人に限られていた。1950年代の南部では、それ以外の状況はまず考えられなかった。渋々とではあったが、チャールズもこれをある程度まで受け入れていた。だがあるところで、彼は限度を定める必要があると感じたという。

 『黒人コミュニティから出るなとか、あれこれルールを守れば施設だけ使ってもいいと言われれば、トイレは裏の黒人専用を使ったし、レストランだって裏口から入った。  そんなことはどうだっていい。あんたらのレストランなんだから、やりたいなら勝手にどうぞってね。だが『白人の前でプレイしたいなら、黒人共を後ろの席に座らせろ』なんていうのだけは許せなかった。おかげで、俺は何度か訴えられたよ。これはマーティン・ルーサー・キング牧師とは何の関係もない。もちろん、彼が世に出てきた時は大いに支持したがね。  俺の考えはこうだ。俺は自分を作ってくれたのは仲間の黒人達だと思っている。だから、その仲間が好きなところに座って自分のステージを見られないのは、どうしても納得がいかなかった。とにかく我慢がならなかったんだ』

 一方、彼の作り出す音楽は確実に進化を続けていた。音楽的センスと実験的精神を兼ね備えた天才という地位を維持しながら、彼はジャズ・アルバムも幾つか制作している。実際、アトランテック時代のアルバムに収められている曲の半数はジャズ・インストゥル・メンタル・ナンバーである。

 チャールズは以前、自分はジャンルに縛られるつもりはないことを強調していた。その後彼はこう断言する。

 『いつもその時に良いと思った物だけをプレイして来た。気に入った曲を選び、その日、その瞬間に感じるままに歌った。だから、次の晩には全然違う曲になることだってあるかもしれない。肝心なのは、自分が楽しむこと・・エゴイストテックに聞こえるかもしれんが、まず俺がその音にノックアウトされないと駄目だ。自分が何も感じないのに、他人の心を動かせられるわけがないだろう』

 55年から59年にかけて、チャールズは音楽に関する全ての機会を利用して、沢山の素晴らしい作品を残している。その多様性、独自性、エネルギー、そして影響力という点から見て、この時期に創造された彼の作品に匹敵するものは現在までどこにも見当たらない。

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