はじめに
この曲がラジオから流れるようになってダスティ・スプリングフィールドという名前を初めて知った。その頃はもうポップス小僧から脱皮して大学生だった。
ドラマチックな構成と圧倒的な彼女の歌唱力にすぐに虜になった。彼女の歌っている動画はもちろん写真さえ簡単には見ることが出来ないという環境が普通であった時代。
どうしてもラジオと一緒に歌いたい気持ちが強くなりノートに英語の歌詞を書き写したことを覚えている。
今回このシリーズにダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield)を登場させるに当り、数多い彼女の代表曲のうち自分なりにどうしても外せない3曲を選抜した。
それは「この胸のときめきを」、「二人だけのデート」、「行かないで」で順次アップしていく。従ってその曲に固有の情報以外については3つに分散させて記載することにした。
●ダスティ・スプリングフィールドのプロフィール(その1)
イギリスが生んだ偉大な白人ソウルシンガーの一人で元祖ブルー・アイド・ソウル・シンガー、1939年4月ロンドンの西ハムステッド生まれ。
1958年にイギリスのヴォーカル・グループ「ラナ・シスターズ」のメンバーとしてプロ歌手デビューを果たす。
60年には兄のディオン、ティム・フィールドとの3人でフォーク・トリオ「ザ・スプリングフィールズ」を結成し。その時からダスティ・スプリングフィールドと名乗るようになった。
イギリスの人気グループになったザ・スプリングフィールズ時代とソロ転向に関しては「二人だけのデート」記事中の(その2)に譲る。「行かないで」以降の後半は(その3)として記載する。
また手短にダスティ・スプリングフィールドのことを知りたいという人向けには以下2つののサイトを紹介したい。いずれもダスティに対する愛情と尊敬にあふれ、かつ詳細、また深い音楽的知識に裏打ちされた解説は他の追随を許さない秀逸なもので非常に参考になる。
ダスティ・スプリングフィールド ブルー・アイド・ソウルの女王
史上最高のポップ・ディーヴァ ー ダスティ・スプリングフィールド
ダスティとこの曲の運命的な出会い
1966年全英1位(全米4位)に輝いた大ヒット曲。
ところがこの曲のオリジナルは別にあった。
ダスティがサンレモに出場した時に聞いたこの曲にぞっこんとなり、一年間誰にも歌われないようにと祈りつつ、暖めておいたというのがこの曲。
音楽祭に参加したダスティは、イタリア語がわからなかったにもかかわらず、この歌に涙を流すほど感動し、ソングライターの一人ピーノ・ドナッジョに是非レコーディングさせてほしいと申し出た。
彼女はこの歌を英語で歌いたいと切望し、翌1966年5月レコーディングのチャンスが訪れたが、肝心の英語詞が出来ていなかった。
プロデューサーでダスティの友人のヴィッキー・ウィッカム(Vicki Wickham)は、自分の友達でヤードバーズのマネージャーであるサイモン・ネイピアベル(Simon Napier-Bell)と力を合わせて英語詞を作ることにした。
ところが二人とも作詞は素人なうえに、原詞のイタリア語もわからなかった。
そこで結局原詞をあまり気にしないで洒落たラブソングを作ろうということになり、出来たのがこの曲の英語詞という。
このように出来上がった曲は翌日録音され1966年5月31日発売、そして前述のような大ヒットとなった。
イタリアのチャートで1位になったカンツォーネの歌詞では「毎晩独りで淋しい、でもあなたはもっと悲しいはず、僕を残して行かないで、あなたなしでは生きてゆけない、あなたは私のもの・・・」といった情熱的な恋の歌である。
それを英語詞では少し複雑な愛の感情を持ったラブソングに変えている。
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● オリジナルはイタリアの曲だった ●
イタリア語タイトルの意味は「君無しでは生きられない僕なのさ」
Pino Donaggio(ピーノ・ドナッジョ)- Io Che Non Vivo Senza Te
1965 San Remo
作詞・作曲はピーノ・ドナッジョ(Pino Donaggio)とヴィトー・パッラヴィッチーニ(Vito Pallavicini)が一緒に行い、チームメンバーのジョディ・ミラーも協力したが、JASRACのデータベースには作詞はバッラヴィッチーニ、作曲はドナッジョとしか記載されていないので一般的にはそのように作詞作曲者名が扱われている。
またイタリア語のオリジナルは1965年9月ベネチア映画祭で金獅子賞を受賞したヴィスコンティ監督の映画「熊座の淡き星影(Vaghe stelle dell’Orsa)」のサウンドトラックとして使われた。
世界に広めた功績はやはりダスティ
ダスティがタイトルと同じ♪You Don’t Have To Say You Love Me♪を歌い上げる箇所が大好きで当時はラジオで流れると合わせてよく歌っていた。
冒頭にも書いたが、もちろん当時は画像はいうまでもなく歌詞も簡単には入手出来ないのでラジオから聞き取れる範囲の英語もどきだが。
ダスティは白人ソウルシンガーとして紹介されることが多いのだが、個人的にはこの曲のようにバラードをドラマチックに力強く歌い上げる歌の中に、繊細で優しく情感豊かに歌うところに実は真骨頂があると思っている。
何と言ってもこの名曲を世界的に知らしめた功績はやはりダスティ・スプリングフィールドのものであろう。
ダスティ自身もこの曲を「古き良き感傷主義」と呼んでいたそうだが、イタリアオペラの流れを汲むカンツォーネのメロディにぴったりの切々と訴える英語の歌詞をつけ、バックにオーケストラを従えるアレンジだから感傷過剰とも思えるところが逆にこの曲の魅力でもある。
当時は接することのなかったダスティの映像
日本発売盤ジャケット
Dusty Springfield
耳に残るオリジナルに最も近い映像。当時はこんな動作で歌ってるとは知らなかった。
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当時のTV映像
カバーセレクション
名曲だけにカバーも数多いが1970年のプレスリーのカバーもスマッシュヒットとなった。
Elrvis Presley(エルヴィス・プレスリー)
Brenda Lee(ブレンダ・リー)
<歌詞>は下記2/2ページに
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